ゲートルのこと

 

ぼくもいくさに征くのだけれど、という詩を書いて23歳の若さで戦死した竹内浩三。この詩にはこんな一節もある。

なんにもできず
蝶をとったり 子供とあそんだり
うっかりしていて戦死するかしら

1945年4月、彼はほんとうに出征先のフィリピンで死んでしまった。遺骨はなく戦死通知の紙だけが、たったひとりの肉親だった姉の元に届いたという。


竹内浩三はゲートルを巻くのが下手で、軍事教練中にゆるんでしまい、巻き直さなければならなかったという。どこか間の抜けた、優しい少年だったのだ。そんな文章を読んでいたら、ゲートルのことを思い出した。私は竹内が死んだ少し前、太平洋戦争末期に生まれたので戦争の記憶はない。だが私の子供時代には、登山や重労働のときなどにゲートルを身につける男たちを時折見かけたものだ。


私たちが中学1年のとき、秋の遠足で妙義山に登った。県境を越えて行き、鎖につかまりながら険しい岩山を登るのだというので、生徒は皆だいぶ前から興奮気味だった。小学校から中学までずっと同級だったミカちゃんという友だちがいた。家が近かったし、教室の席も近かったので、よく一緒に遊んだ。けれどミカちゃんは、幼時に患った脊椎カリエスのために体育の時間はいつも見学で、遠足も行ったことはなかった。


だがこの年、ミカちゃんははじめて遠足に参加することにした。おじいちゃんが一緒に行ってくれることになった。ミカちゃんの父親は目抜き通りに大きい金物屋を構えていたが、ミカちゃんの母親が亡くなったあと再婚していたせいもあり、大勢のきょうだいのなかでミカちゃんだけが祖父母と暮らしていたのだ。ウサギをたくさん飼い、盆栽をずらりと庭先に並べている、こじんまりとした暖かい家だった。


遠足の日、おじいちゃんはゲートルに地下足袋でリュックを背負い、幅広のおんぶ用の紐を用意していた。他の級友はいざ知らず、私にはこのおんぶ紐は馴染みのものだった。雨降りの日など、おじいちゃんはこの紐を持ってミカちゃんを迎えに来た。ミカちゃんをおんぶして傘を差したおじいちゃんと、一人で傘を差していた私は、ひとことも言葉はかわさず並んで歩き、一緒に帰ったものだった。


妙義山の険しい山道を、おじいちゃんはぺちゃんこにしたリュックの上にミカちゃんを載せておんぶ紐でゆわえつけ、杖の先で足場を確かめながら注意深く登っていった。私はおじいちゃんのゲートルの足元を見ながら、そのあとを歩いた。あのときおじいちゃんは、何歳だったのだろう。ミカちゃんはいくら小柄だったとはいえ20キロは優に超える重さはあったはずだ。あの日も私は、おじいちゃんとは一言も話はしなかったような気がする。


登山を終えての帰りは、たしか軽井沢駅から汽車に乗った。あのころは蒸気機関車だ。石炭の匂いにまみれた車輌に乗り込むと、おじいちゃんはミカちゃんのために窓際の席をとった。窓の外をアイスクリームの売り子が呼び声をかけながら通る。するとミカちゃんは「おじいちゃん、アイスクリーム食べたい」と言った。当時の中学生の遠足は、持って行く菓子類なども今ふうに言えば100円以下とか200円以下、あのころだと50円以下ぐらいに決められていた。当然小遣いなどは許されず、まして買い食いなど思いもよらないことだった。


だがおじいちゃんは、平然とアイスクリームを買い求めた。おじいちゃんが紐でぐるぐる巻いた巾着を懐から取り出して金を払うようすを、私は他の子たちと一緒に通路に立ったまま、黙って見ていた。ミカちゃんはさもおいしそうにアイスクリームを食べた。誰も何も、取り立てて文句を言ったりする者などいなかった。


あれから1年後か2年後に、おじいちゃんは亡くなった。
その日は雨だった。いつもは学校を出て歩き出すとまもなく、おじいちゃんが現れた。だがその日はだいぶ歩いてから、ミカちゃんの大きいお兄さんがおんぶ紐を抱えて歩いてくるのに出会った。お兄さんはミカちゃんに背を向けてしゃがみ込み、おじいちゃんと同じようにミカちゃんをおんぶすると、黙ったまますたすたと歩き去った。


お兄さんの背中で、ミカちゃんはおじいちゃんの死を知らされたという。「ミカコ、おじいちゃん死んだぞ」とお兄さんは言った。その話をミカちゃんから聞かされたときも、私は無言だった気がする。病気だったのか、突然亡くなったのかなども尋ねさえしなかった。


いまはもう、ミカちゃんもこの世にはいない。だがなぜか、おじいちゃんの小柄だががっしりしたゲートル姿と、日焼けした赤い鼻の笑顔はいまも目に焼き付いている。おじいちゃんは、ゲートルを巻くことをどの戦争のときにおぼえたのだろう。日露戦争だろうか。それとも日清戦争だろうか。