ディアスポラ・その後 日本語教室で

 土曜日の夜、町はずれの公園の一角にある文化センターへ行く。ボランティアによる日本語教室が開かれるのだ。私はボランティアスタッフとして日本語を教えるようになって、今年で3年目だ。


 公園の駐車場で車を降りると、まわりの丘で花盛りのアカシアの甘やかな香りにつつまれる。文化センターまでの曲がりくねった坂道を歩きながら、ここを歩く楽しみがボランティアを続けさせているのではないか、と思って苦笑する。ひっそりと静まりかえっていて、いつでも心が安まる。教室が終わっての帰り道などは見渡す限りの満天の星空だ。


 日本語教室には年齢も背景も、実にさまざまな人が集まってくる。ここは人口4万の、とりたてて産業もない市だが、いまでは25カ国からの700人にのぼる外国人が定住しているのだという。教室に集まってくるのは、いろんな事情で日本語学習が必要だと感じている人たちだ。だから皆真剣で、7時から勉強を始めると、係を決めておいて声をかけないと、終了時間の9時になったことに気づかないほどだ。学習は日本語能力検定試験のレベルを大ざっぱな目安として、グループ分けして進められる。


 私は通常の読み書きや会話がなんとかこなせる、2級のグループを受け持つことが多く、昨年までは主に中国残留孤児の2世、3世といった人を教えていた。けれど今年は日系ブラジル人3世の小田さんがくわわったことで、思わぬ面白さが生まれている。


 小田さんは日本に来て25年になる。今年の春、小田さんの勤めている会社に、3人のベトナム人青年が技能実習生としてやってきた。彼らは3年後には帰国することになっているので、それまでになんとか日本語の能力検定試験の3級か、できれば2級に合格したいという。それで隣町にあるこの教室をみつけて毎週自転車で通うことにした。自転車だと30分ほどの道のりだ。「雨の日はどうするの?」と心配する私たちに、「カッパがある」と平気な顔で答えた。元気なものだ。


 それを聞いた小田さんは彼らに、車でつれていってやると申し出たそうだ。そしてついでに自分も日本語の勉強をすることにした。日本語の会話にはそれほど不自由はない。しかし実は、小田さんは日本語の読み書きができないのだ。


 読み書きができずに、どうやって日本語をおぼえていくのか、私には想像するのが難しい。小田さんもどこのグループに入ったらいいか戸惑っているようすだった。初歩のグループや私のグループなど、あちこちに顔を出して試していた。一方で小田さんは、小学生用のマス目のノートを買って、大きな字で「あいうえお」を書く練習をはじめた。


 私のグループでは、テキストの勉強だけではつまらないので、毎回適当な新聞記事などを教材にして、ゆっくり読んで意味を解説したり関連語を教えたりする。小田さんが私のグループに定着しはじめて第一回目、新聞記事を前にして、小田さんは他の人の話を聞いているだけだった。どこを読んでいるのかも分からないらしかった。二回目、小田さんは、どこを読んでいるのかは、分かるようだった。三回目ごろは、小田さんは何回も「あいうえお」を書いて、なんとか全部読めるようになっていた。


 その日私は、たまたま昔新聞に掲載されたサザエさんと、ユーモラスな日常雑記の投稿を集めたコラムを教材に用意していた。いつもとちがう、おかしみのある話題にしようと思ったのだ。その日私のグループは、小田さんと中国人の栗山さん夫妻だった。栗山さんは13年ほど前に日本に来た。そのとき小学校4年生だった娘さんは、外国語大学英文科に入学を果たして昨年は1年間のロンドン留学もした。家族そろって勉強熱心だ。栗山さんの夫の方は、日本語能力試験1級と旋盤技術試験の合格を目指している。


 小田さんにサザエさんを読んでもらった。幸いにもサザエさんの台詞は、全部ひらがなだった。あらすじは、夜遅く電報の配達人が来て、サザエさんは配達人にせかされながら門口まで受け取りに行く。配達人がハンコをくれと言うと、ハンコを取りに戻るサザエさんが、後ろ手にマサカリを隠し持っている。自分が恐れられていたのを知り、偉そうに振る舞っていた配達人はギョッとする、というものだ。


 小田さんはたぶん、このときはじめて人前で声を出して日本語を読んだことになる。不安そうにカバンから出した50音表を手元に置いていた。だが、小田さんは驚くほどすらすらと読み、読み終えると同時にユーモアも理解した。


 ユーモラスな日常雑記のコラムの方は、一人ずつ順番に一篇をゆっくり読む。私がそのあとで、必要な解説を入れながらもう一度読む。小田さんは私が読むのを聞いてクスッと笑う。だが栗山さんは、2回3回とていねいに読んでも、なかなかクスッとはならない。ユーモアを分かるには、こまかいニュアンスを理解する必要があるようだ。小田さんは読み書きができない状況のなかで生きてきて、それに代わる聞く力を磨いたと思われる。
 

 その日、勉強はうまくいったかと他のボランティアスタッフから尋ねられて、小田さんは「なんとかついていけた」と答えたそうだ。小田さんは毎回私のグループに来るようになり、私は折に触れて小田さんの背景などを知ることになった。


 小田さんは25年前に妻と二人で来日した。短期の出稼ぎのつもりだった。来日当初、妻と二人で日本語の勉強を始めた。幸い妻は読み書きも習得した。それで小田さんは、読み書きは妻にまかせて、自分は仕事に専念したという。


 その後3人の子供が生まれて、いつのまにか日本滞在もすっかり長くなった。だが小田さんは、やはりいつかブラジルに帰りたいと思っている。友だちもいるし、読み書きにも不自由しないから、という。だが日本生まれの子供たちは、果たしてブラジルに一緒に行くと言うだろうか。


 小田さんの家族は祖父の代にブラジルに移民した。父親は2世、小田さんは3世と世代を経るにつれてすっかりブラジルに馴染んだ。妻との会話はいまでもポルトガル語だという。小田さんは、人に会えば頬にちゅっとキスをして挨拶をする社会で育った人らしい、あたりの柔らかさと、にこやかさを身につけている。それにまったく急がず、マイペースだ。あと数回「あいうえお」を書いて、カタカナはそのあとだ、とほほえんでいる。


 栗山さんの場合も、夫の祖父母が満州開拓移民だった。小田さんの祖父母とは行った先がずいぶん違うが、彼らは異国に骨を埋める覚悟を決めて日本をあとにしたディアスポラだ。栗山さんの母親は終戦時の混乱で残留孤児となり、のちに中国人と結婚して栗山さんら3人の子供をもうけた。ずっとのちに母親が日本への帰国を果たすと、それに続いて3人の子供はそれぞれの家族をつれて来日した。


 栗山さんは夫婦や親族のあいだでは中国語で会話しているせいで、中国語ふうの喉に力を入れた発声のままで日本語を話す。所作も中国人ふうで、なにかというとまなじりを決して力説するというふうだ。娘の東京での学生生活とロンドン留学には、ずいぶんと金がかかった。就職は絶対に英語を生かしてきちんとしたところにさせるのだ、と強い口調で繰り返している。


 だがこの教室に集う人たちは、皆が驚くほどやさしい。そのやさしさは、親についてきて宿題などを教わっていく子供たちも同じだ。皆が長い旅をしさまざまな経験をしているからだろうか。そうした旅の過程でいろんな言葉や仕草を身につけ、いろんな人たちがここに集っている。