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台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』 と 八田與一

 

 台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』を見に、隣町の映画館へ行ってきた。この映画は日本での評判がえらくいいと聞いていたが、ここでは観客はたった2人だった。内容は、1931年に台湾の嘉義農林学校(通称:嘉農、KANO)野球部が、まったく無名のチームながら甲子園出場を果たし、決勝まで進んだすえに惜しくも敗退したというもので、実話に基づいた物語だ。


 プロデューサーで脚本を書いた魏徳聖(ウェイ・ダーション)は、1968年生まれだ。日本の植民地時代を体験したのは彼の祖父母の世代ということになる。家族のなかでは、どんなふうに植民地時代が語り継がれてきたのだろうか、とそのことが興味深い。


 というのも、この作品も含めて、彼が以前に監督した映画のなかで語られる植民地時代の話は、日本人にはこそばゆいほど甘い点があちこちにある。とはいえ過去2本の監督作品の印象は、まずは心地よい物語で惹きつけておいてから、ずしりと重いわけではないが、じわりと堪える石ころのようなものを手渡される感じだった。しかし今回の『KANO 1931海の向こうの甲子園』の日本での反応を見ていると、どうやら石ころを受け取った人は少ないように思える。なぜなのだろう。知識の欠如か、はたまた感性の鈍化のせいなのか。


 魏徳聖監督の『海角七号 君想う、国境の南』(2009年)は、植民地台湾から去って行く日本人教師と台湾人女学生が交わした恋文が伏線となっている現代の恋物語で、いかにも甘い話と思わせながら、決してそれだけではない。『セデック・バレ』(2011)は、台湾の先住少数民族(台湾での現在の呼称は「原住民」)が、日本による差別的・非人間的扱いに怒り、決死の覚悟で蜂起した霧社事件(1930年)を描いている。史実には比較的忠実なストーリーだが、日本人に向けられるべき刃の切っ先はやわらげられていて、むしろ無惨に殲滅された少数民族側の気高さに話を集約している。


 魏徳聖は、霧社事件の資料を調べているうちに嘉義農林学校野球チームの実話を知ったという。そして爽やかなスポーツ少年ものをつくりたいと考えた。そこで『セデックバレ』に出演し監督経験もある馬志翔(マージーシアン)を監督に起用した。彼の野球選手としての経験を買ったのだ。


KANO 1931海の向こうの甲子園』の出演者を選ぶにあたって、彼らは演技経験よりも野球の経験を重視したという。それが功を奏して、大事な見せ場である野球のシーンは歯切れもテンポもよく、この作品を成功に導いた大きい要素になっている。


 嘉義農林学校野球部は、日本人、漢族系台湾人、先住少数民族(台湾での現在の呼称は「原住民」)の混成チームだった。当時の甲子園での大会には、日本の植民地統治下にあった朝鮮半島からも、日本が傀儡政権を置いて実質支配していた満州からも代表校が出場していた。嘉農が準優勝した年は、朝鮮代表は京城商、満州代表は大連商だった。だがこれらのチームはほとんど日本人選手で占められていたという。


 映画『KANO』のなかでも、日本人の役人が、なぜ台湾人や少数民族の選手をチームに入れるのかと侮蔑的な発言をする場面がある。だが野球部の監督・近藤兵太郎は、それぞれの強みを強調して、役人の発言をつっぱねる。近藤兵太郎のような人は、いつの時代にもいたであろうし、いてほしい。


 しかし、あれだけですんだはずはない、と私は考えずにはいられない。植民地統治というのは政治や経済の仕組みの問題だけではない。その体制を支える人々の気持ちを、根本でゆがませずにはおかない。それは中学生にも無関係ではない。
 かつて私は、太平洋戦争開戦直後に台湾の基隆中学で起きた、台湾人学生5人が特高に逮捕された事件を知り、事件からほぼ50年後に当事者たちに取材して事の成り行きを調べて書いたことがある。『台湾人と日本人 基隆中学「F-マン事件」』(晶文社)だ。


 事件の詳細については省くが、植民地時代の中学生活を経験した人々から話を聞いて思ったのは、中学生でも植民地支配被支配の枠に否応なく取り込まれるという現実だ。ふだんの生活のなかでは、少年らしい遊びも冗談も友情もある。しかしいったん事が起きたら、両者の立場の違いは埋めようもない。ふだんは自分の力ではどうしようもない植民地体制のことは忘れたふりで暮らしていても、それはやはり逃れられない現実なのだ。


「F-マン事件」当時、特高に逮捕されれば拷問で命を落とす例も少なくなかったから、台湾人少年たちは事件発生を知って恐怖に震えた。事件から半世紀を経ても、思い出すのも嫌だと言う人、妻にも一切話したことはないという人もいた。他方で日本人の同級生たちはといえば、台湾人少年たちの行動を体育教師に密告した元級長も含めて、なんら苦痛を感じた形跡はなかった。むしろ多くの人が、それを滑稽な事件だとして、笑い混じりに語っていた。隣の人の心情をも感じ取れなくするのが、差別の構造だ。


『KANO 1931海の向こうの甲子園』では、植民地特有の暗い辛い出来事などは描かず、明るい少年映画をつくりたかったと魏徳聖は語っている。その気持ちは分かるし、映画はそれでいい。暗い話はたくさんある、だがそれより光をさがしあてたいというわけだ。そのようにして、野球に打ち込んだ少年たち、彼らを引っ張った近藤監督が造形された。その姿は、いま時代を超えて人々に感動を与えているというわけだ。


 ところが映画のなかには、嘉義農林学校野球部の活躍を支える明るい話として、もう一人の日本人がでてくる。八田與一(はったよいち)だ。彼の描き方については問題あり、と私は思う。以下にその理由を述べてみたい。


 八田與一は植民地時代の1920から30年代にかけて、台湾の中南部に大規模な潅漑施設「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」を建設した技術者で、台湾総督府の職員であった。1930年には、貯水量1億5千万トンの烏山頭ダムおよび全長1万6千キロメートルの給水・排水路からなる嘉南大圳が完成した。


 しかし実を言えば、八田與一の名前がさかんに語られるようになったのは、日本では1980年代から、台湾では1990年代後半からのことにすぎない。それまでは、潅漑施設は台湾でいまもなお使用されているものの、八田與一の名前がとりたてて語られるようなことはなかった。それにはやはり理由があるのだ。


 20数年前に、台湾の史跡を訪ね歩いていた高雄の日本人学校教師が、八田與一のことを知って紹介文を書いた。それがきっかけで八田與一は、日本が植民地台湾でもよいことをしたのだ、との論調で日本で語られることになった。近代化を進めて、米の収穫量を飛躍的に増やしたというわけだ。


 台湾では、日本のこの風潮が伝わって八田與一が語られるようになった。台湾で彼がどのように賞讃されるかといえば、台湾の歴史が背負う複雑な事情がからんでいる。最初に彼を取り上げたのは、李登輝元総統のように日本の植民地時代に高等教育まで進み日本語を流ちょうに操る世代だった。彼らは、八田與一を「正義を重んじ、公に奉ずる」精神の持ち主、つまり彼らの言葉で言えば「日本精神」の象徴として讃えはじめた。彼らにとっては、日本精神の称揚は、戦後中国大陸から台湾に移住してきた「外省人」への批判の裏返しなのだ。こうして八田の物語は、日本と台湾で文脈の違いはあるものの、賞讃一辺倒へと傾いていった。近年では台湾でも、八田らが行った大規模な水利工事がもたらした地域社会での軋轢や苦難に触れようとすると、眉をひそめられるという話も聞く。


 さて映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』では、八田與一が地域の有名人で周囲から親しまれている人として扱われている。水路視察のためにボートに乗っている八田が、水路沿いをランニングしている野球チームに声援を送る。あるいは選手の一人が、農業を発達させた八田へのあこがれを語ったりする。


 しかしこの八田の描き方は、近年の八田を賞讃する風潮に取り込まれすぎている。物語当時の台湾側の資料をあたれば、嘉南大圳の大工事によって農民たちがこうむった過酷な状況が見えてくる。その一端を知っただけで、美談に美談を重ねた映画がそらぞらしく思えてしまう。


 嘉南大圳は、最初は工事費4200万円を国庫から支出する計画だったが、総督府内部で反対論が起きたため計画を変更した。そこで「公共組合嘉南大圳」を組織して、約1万人の土地所有者を組合員とし、総額3000万円の負担金を課した。このため組合員は工事中は土地1甲歩につき年額10円、完成翌年からは借入利息および残額を10年の年賦でおさめることになった。


 工事費はその後計画見直しなどで増額され、さらに末端の給・排水路の工事費も加算され、組合員の負担はさらに増えた。工事完成後にはあらたに、組合員は維持費を負担させられることになった。負担金を差し引くと、水利工事による増収は見込めなかった。


 負担金未納者は「地租その他国税納付の受付を拒絶する」との総督府からの通知を受けて、所有地を手放さざるをえない者も出た。完成後間もない1931年12月8日には235名、同月12日には78名が所有地を競売に付された。


 給水計画も欠点が多く、稲作、畑作、養魚池、甘蔗などそれぞれに問題があった。総督府が打ち出した三年輪作制度は不合理であり、潅漑時期も実情を無視したものだった。嘉南大圳に関係する農民は約40万人いたので、弾圧によって弱体化していた農民組合が嘉南大圳闘争委員会を結成し、大圳水租の不納運動を起こし、また負担金の軽減、潅漑方法や給水時期の変更などの要求を出した。


 総督府がなぜ嘉南大圳を建設したかと言えば、そこから生まれる富を収奪するためだ。1929年に台湾文化協会のメンバーによって発行された「台湾議会設置請願書」のなかの「台湾統治の現状」でも嘉南大圳の問題が取り上げられている。


 そこでは次のようなことが述べられている。1922年の統計では、日本本国では税額負担が1人14円であるのに対して、台湾人の負担はその倍である。さらに南北縦貫道路を建設する際には、土地を寄付の名目で強制的に収用し、労働で納める課役「夫役(ぶやく)」を課した。嘉南大圳の建設の際にも、不景気のさなかに5千万円の費用で6カ年の工事計画のもとに土地を切り開き、地方民力を一層困窮させた。

 

 植民地統治が遠い過去のことになってしまった現在、その実情を正しく知る努力はやはり必要なのではないか。上記の基隆中学の卒業生たちから聞いた話にも、中学時代には学校からなにかと寄付を求められた、というのがあった。プール建設、スポーツ用具の購入などの名目で、学生数ではわずか15パーセントを占めるに過ぎない台湾人学生は、多くの寄付をなかば強要されたという。


KANO 1931海の向こうの甲子園』が日本で好評だったので、馬志翔監督や魏徳聖プロデューサーは日本のマスコミなど多くのインタビューに応じたようだ。だがいまのところ、八田與一の当時の評価と映画での描かれ方の乖離に触れたものは目にしていない。台湾人が史実のなかから何を取り上げ、何を省いたか、その理由は彼らにしか分からない。しかし、日本人が省かれたことに関して無知なるがゆえに、この映画に浮かれていてよいのだろうか。


 1937年日中戦争が始まる頃から、台湾人少年たちにはより重い苦難が襲いかかるようになる。映画では、ラストシーンのあとにKANOチームの実在のメンバーのその後が顔写真とともに簡単に紹介される。そのうち数人が南方で戦死している。もちろん日本兵として徴用され、命を落としたのだ。彼らはえてして最下位の兵卒として激戦地へ送り込まれた。そして遺族に対しての補償はきちんとはされていない。


 日本人観客が物語の背景について考えるか考えないかは、どちらなりとご自由にどうぞ、と制作陣は思っているのかもしれない。