種まきの季節

 

 信州にも遅い春がやってきた。
 福寿草、クロッカス、水仙と春到来を告げる花が咲き出すと、その後は競うようにあちこちで色々な花が開く。と思うと木々も芽吹きはじめ、ほどなくあたりの山々も笑いだす、というわけだ。
 そんなようすを見ながら、畑仕事を少しずつはじめることになる。

 畑仕事は収穫をともなうから、楽しみも大きいのだが、反面悩みもなかなか深い。
 数年前に、家のすぐ近くの広い畑を「どうぞお使い下さい」と言われて耕しはじめた。畑の持ち主が高齢になると、荒れ放題になってしまう場合も多い。それで私は、手が回らなくなった畑の一部を使わないかと声をかけられたのだ。この畑は西側は竹林、北側は梅や楓の大木にかこまれていて、土にしゃがみ込むと聞こえるのは風の音と小鳥の鳴き声だけだ。

 私には不相応に広い畑に向き合って、はじめて知ったことがたくさんある。
 身近で手に入る種は、ほとんどがF1と呼ばれる一代交配種で、この種から野菜を育てても種は実らない。これは驚きだった。だから種は毎年買わなければならないのだ。F1は、遺伝的に遠縁の系統をかけあわせてつくられた種で、増産を目指して開発された。店に並ぶ野菜が、形も味もみな同じようになり、香りも味も薄くまずくなった。あるいは、季節野菜が1年中店で手に入るようになった、などもこのF1開発によるものだ。

 こんなふうに市場原理が優先して、私たちが日々食べる野菜までが変質してしまっている。F1の作り方は、野菜の種類によってさまざまで、突然変異のものを探し出してそれを増やしたり、放射線をあてたり、二酸化炭素づけにしたりして、種子ができないような細工がされている。その種から育てられた野菜が大量に出回り、人々はそんなこととはつゆ知らずもりもり食べているのだと思うと、何か空恐ろしい。
 自分の手で野菜をつくるからには、なんとかF1ではない在来種でつくりたい。そう思って在来種の種を「野口のタネ」から買ったり、知り合いの畑から分けてもらうよう心がけている。

 しかし市場原理ののさばり方はすさまじい。世界の種苗会社はどんどん遺伝子組み換え産業に乗っ取られているという。その最たるものがアメリカのモンサント社だ。数年前にアルゼンチンでモンサント社に抗議するデモに遭遇して、参加者の多さと怒りの激しさに驚いた。最近になって、同社の全貌をえぐりだした『モンサント 世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業』(マリー=モニク・ロバン著)を読んでみたが、背筋が寒くなるような陰謀や利益至上主義の逸話に満ちている。

 モンサントは公害を振りまきながら肥ってきた。甚大な健康被害を出したPCB、ダイオキシン。これらが同社の製品だった。その後同社は除草剤「ラウンドアップ」でさらなる利益を上げ、そのうえ「ラウンドアップ」に耐性を持つ作物を遺伝子組み換えでつくりだして強欲に利益を追求した。北アメリカの小麦、メキシコのトウモロコシ、アルゼンチン・パラグアイ・ブラジルの大豆、インドの綿花。これらに遺伝子組み換えの種子が持ち込まれ、在来種が駆逐され、そうなるといったん問題が起きればまたモンサントの農薬や新種の作物に頼らざるを得ず、農民は借金漬けになっていく。なかでも怒りをおぼえたのは、自分の畑からモンサント遺伝子組み換え作物のタネが一粒でも見つかれば、知的所有権を侵したとして賠償金を取られるというメキシコその他の事例だ。自殺にまで追い込まれる各地の農民の悲劇が記録されている。しかも遺伝子組み換え食品の安全性はまるで保証されてなどいないのだ。

 日本はいま、TPP協定への加盟がどうなるかの瀬戸際にいるが、遺伝子組み換え作物と食の安全性はもっと論じられなければならない争点だ。協定の成り行き次第では、日本もアメリカと同様に遺伝子組み換え作物のラベル表記が禁じられ、消費者は選択の余地なく遺伝子組み換え食品を食べることになりかねないからだ。遺伝子組み換え作物の遺伝子に関する知的所有権の問題も重大だ。モンサントの種子が紛れ込んでいただけで、知的所有権を侵害したなどと言われたらたまったものではない。

 さて私のささやかな畑に話を戻すと、もっと具体的な細かい問題に私は悩まされている。広い畑には最近、また新たな耕作者が一人くわわった。
 私以外の耕作者たちは、雑草を根こそぎ除いてしまうことに情熱を燃やす。マルチと呼ばれるビニールシートを使って、大量のプラスチックゴミを出すのも躊躇せず、少しでも粒の大きいタマネギを育てようとする。タマネギはたくさん獲れ、1年近く保存しても芽も出ない、それは苗を作った種にコバルトが照射されているからだ、などという聞きたくもない話がさりげなく交わされる。

 私は畑作業の技術も体力も不足しているせいもあるが、雑草をきれいに除くことができない。その必要があるのかとの疑問が、怠け心と結びついて除草作業に腰が引けてしまう。だから昨年のタネがこぼれて自然に出てきた香菜やカモミールが私の畑にははんぼしている。春の日を受けて咲き誇っているタンポポも、野菜の生育に邪魔だからと言って、引きぬいてしまう気には到底なれない。要するに、自分の労力や土地の力にあったのんびりした作物栽培をしてみたいのだ。きれいに雑草を除去して、大きさのそろった野菜が獲れることを喜ぶなどは、それこそモンサント流の思考に影響されすぎているのではないか。

 これはどうも、私のような畑作りの素人の、手際の悪さ故の悩みというだけではなさそうだ。
 しばらく前に自然農法の農家を見学に行ったことがある。彼は雑草の持つ力を研究し、雑草も作物もごちゃ混ぜという感じの畑で、立派な有機農作物を育てて生活を立てていた。彼でさえも、雑草をきれいに除去しないせいで、時には周囲から口もきいてもらえないほどの村八分に遭ったという。

 自然農法を究めた人には足元にもおよばないが、私は作物以外の草はなんでも抜いてしまうとか、手軽な種や苗でたくさんの収穫を望んだりせず、納得しつつ野菜を育てていきたい。
 そんなわけで、私の3年目の畑仕事は、まずは耕耘機で全体の土をかき回してしまいたいおじさんとのあいだで、いささかきな臭い雰囲気を醸し出しながら始まろうとしている。