永山則夫 封印された鑑定記録


 年末から年始にかけて「永山則夫 封印された鑑定記録」堀川恵子著を読んだ。自分がうわべしか知らなかったことに気づかされた、ずしりと重い本であった。


 永山則夫が4件の連続射殺事件を起こし逮捕されたのは、1968年から69年にかけてのことだという。事件および逮捕当時、彼は19歳だった。私は彼よりいくつか年長だが、彼のニュースは強く印象に残っている。その後も彼に関する情報には関心を寄せていたが、本質的なところは何も知らずにいたと、本書を読んで痛切に思った。


 この本に渋谷のフルーツパーラー西村が出てくる。永山則夫が中学を卒業し、盗んだTシャツなどで身支度をして上京し、誰も手助けをしてくれないなかで住み込みで働き始めたのが、この西村だという。渋谷は、私にとっても初めて知った都会であった。西村のガラス張りの明るい店内のようすが記憶にある。あのころ、あの店のバックヤードに永山則夫がいたのかもしれない。小柄な体に心細さを抑え込んで。


 永山則夫は、非常につらい子供時代を過ごしている。網走で父親が博打の果てに失踪。母親は生きていくためとは言え、17歳の娘と2歳の幼児および孫の3人だけをつれて青森へ行ってしまった。他の4人の子どもたちは極寒の網走に放置された。4歳の永山則夫、14歳の姉、12歳と10歳の兄である。食糧も金もない子どもたちだけの暮らしで、春まで生き延びたのが奇跡と言えるほどの過酷さであった。


 母のもとに引き取られてからも、永山則夫の苦境は続く。次兄の暴力、小中学校ともほとんど不登校。中卒で上京してからも職を転々として、半年以上続いた職はない。逃げるように故郷を後にしたものの、15歳の彼はあまりに非力、あまりにも孤立無援であった。


 逮捕後拘留されるとすぐに、永山則夫は「無知の涙」の執筆を開始した。半年余り後には合同出版から刊行され大きな話題を呼んだ。その間も彼は強い自殺衝動にかられ続け、何回もの自殺未遂をしている。一方で、精神科医・新井尚賢技官によって永山則夫の精神鑑定が行われている。


 ところがその約2年後、永山の弁護団から精神科医・石川義博のもとに再度の精神鑑定の依頼が届いた。石川は当時38歳、東京大学医学部精神医学教室を経て、ロンドンで先端の精神医療を学び帰国してまもないころだった。難しい事件であること、すでに一度鑑定が行われていることなどの理由でためらいはあったが、結局石川は鑑定を引き受けた。その大きい理由のひとつは、新井鑑定では永山則夫の生い立ちがごく簡単にしか触れられていないことだった。石川ははじめから、永山の悲惨な幼少期の出来事をじっくり聞き取ろうとの覚悟でこの仕事に臨んだ。永山の親族に精神を病んだ者が数名いるが、それと事件との関連も解き明かさなくてはならない。石川医師の面談は、精神鑑定の常識を離れて、永山自身が語りだすのを待つという方法がとられた。


 石川医師による永山則夫の第二次精神鑑定は、1974年1月16日から4月1日まで、永山を八王子刑務所に鑑定留置して行われた。石川医師は、青森に永山の母や長姉を訪ねて話を聞き取ることまでしている。それらも含め、鑑定留置前後にわたる278日間をかけて膨大な鑑定書が完成した。面談を録音した100時間を超えるテープ49本も残された。


 この本の著者はそのテープを録音から37年も後に石川医師から借り受け、カルテや鑑定書と突き合わせつつ、永山則夫がどのようにして連続射殺事件を起こすに至ったのかを追っている。永山が石川医師に対して次第に心を開き、思い出すのさえつらい過去の出来事に向き合い、とつとつと言葉を発していくさまは感動的でさえある。


 石川医師は、永山則夫が母に捨てられたと感じている母の行為の理由も探っている。母もまた過酷な幼少期を過ごしていた。石川医師はまた、永山則夫の幼時に唯一心温まる思い出を残してくれた長姉にも会い、永山の心の動きを知ろうとしている。これらの膨大な記録から私たちが教えられることは非常に多い。わずかなやさしさや親切さえもが、どれほど人間の心を潤し励ますものか。幼少年期の人間がいかにもろく、偶然に左右されて悪に大きく振れてしまうものであるか。しかし永山則夫には温かい手はなかなか届かず、家庭でも職場でも、微罪で送り込まれた少年鑑別所でも激しい暴力にさらされる。転々と職を変え、どこでも信頼関係を築く糸口さえみつからず、相談相手一人持たない永山則夫はどんどん追い詰められていく。


 ところが石川が心血を注いで完成させたこの鑑定書は、裁判にはほとんど生かされなかった。石川医師に鑑定を依頼してきたころの、手弁当で集まった優秀な弁護団は散り散りになってしまい、永山のまわりには全共闘運動の元闘士や社会運動家などが集まっていた。裁判は混とんとし、石川医師が第二次精神鑑定の担当者として東京地裁で証人尋問を受けるまでに、4年の月日が経ってしまっていた。


 しかも検察官からの石川医師への反対尋問は、糾弾と言ってもいいほどの激しさだった。永山の犯罪動機が「金ほしさ」とされていたのが、石川医師の鑑定書によって覆されたのが、その最大の理由だった。石川医師が脳波検査などにより永山の脳の脆弱性を指摘したこと、また永山の幼少期の生い立ちがその後の行動に決定的な影響を及ぼしたとする指摘も、検査官の激しい反発を招いた。当時はまだPTSDという言葉も概念も知られていなかったし、いまのように虐待の連鎖や、ネグレクトの影響の大きさなども注目されてはいなかった。


 さらに石川医師が鑑定書をもとに自説を強硬に主張できなかった理由があった。それは鑑定書完成直後に関係者に手渡されたとき、永山自身が鑑定の中身を否定したのだ。「自分の鑑定書じゃないみたいだ」と彼は言ったという。永山は獄中で必死に勉強を重ねて、大量の書物を読破し、自分でも著書を出版するまでになった。その永山は鑑定書にあった「被害妄想」「脳の脆弱性」「精神病に近い精神状態」などに自尊心を傷つけられ、激しく反発したと思われる。その一方で、永山則夫の死刑執行後に残された数少ない遺品のなかには、丁寧に保管され繰り返し読み込まれていたと思われる石川医師による鑑定書があった。永山則夫がこの鑑定書に一方では愛着をかんじていたことがうかがえる。石川医師はそのことは知らなかった。しかし彼は永山則夫の精神鑑定を最後に、犯罪精神医学を離れた。精神療法だったら患者から批判を受けても、それについて対話を重ねて治療に結びつけることもできる。だが精神鑑定の場合は、批判に対する反論の道さえも閉ざされているからだ。


 石川医師が証人尋問に立った第一審では、石川鑑定の欠点だけをあげつらい鑑定書を踏みにじるような形で、死刑判決が下された。1979年、永山が30歳のときだ。法廷で永山が怒号をあげ暴力的な態度を取ったのも判決では不利に働いた。


 しかしその判決から34年後の2012年、3人の裁判官のうちの1人であった豊吉彬元裁判官は、石川鑑定が採用されなかった事情についてつぎのような重要な証言をしている。石川鑑定は見たこともないような立派なものだった。3人の裁判官による合議でも、これでは極刑を下すのは無理だと口にする人さえいた。しかし裁判の結論はもう決まっていた。だからあの鑑定書は、排斥するよりほかなかったのだ、と。


 こうした裁判所の姿勢はいまにいたってもなお続いている。前に進めるきっかけを、ことごとく逃しているのが、この日本という国だ、とつくづく思う。この国のどこかに、重大な欠陥がひそんでいるのではないだろうか。

赤い服のカワムラさん

 


 日曜日の夕方、すぐ近くの城址公園へ散歩に行った。歩くつもりで出かけ、その気になったら適当に走る、という気軽なエクササイズだ。
 昼間は行楽客でにぎわったであろう公園内も、夕方5時ごろになるともう誰もいない。そうなると我が庭のようなもので、山並みを眺めたり、色づきはじめた木々に見とれたり、ぼんやり物思いにふけったりと、心地よい時間を過ごす。


 と、若い女性が急ぎ足で近寄ってきた。私は夕方の冷気を恐れてウィンドブレーカーを着ているのに、彼女は半袖Tシャツでしかも汗ばんだ顔。なにやら慌てているようすに見えた。
「赤い服を着た、細身で背の高い女性を見かけませんでしたか」と尋ねられた。
「誰も見ませんでしたが」と答えながら続きをうながし、気が動転しているのかあちこち飛ぶ話をまとめると、どうやら迷い人探しらしい。


 若い女性は近くの老人介護施設の職員だという。そういえば紺色Tシャツの胸元にロゴのようなものが入っている。彼女の話では、入所者の女性がこのあたりはよく知っているからと出かけて行ったが、だいぶたっても戻らないのだという。
 その女性の名前は、と尋ねると「カワムラさん」とのこと。
「じゃあ、赤い服の女性を見つけたら、カワムラさんですか、と声をかけてみるけど、そしたら返事はしてくれるかしら」と訊くと、
「大丈夫だと思います。よろしくお願いします」と若い女性は走り去ろうとする。
「見つかったら、公園の正面入り口あたりに連れていき、あなたの施設に連絡します」と後ろ姿に呼びかけた。


 この季節は朝晩と昼間の温度差が大きい。夕方以降はどんどん寒くなる。早く見つけないと大変だ、と散歩どころではない気分になった。まさか谷には降りて行かないだろうな、と公園の周囲に広がる森をのぞいたりしていると、こんどは若い男性が走り寄ってきた。
「あの赤い服を着た女性を、、」というところまで聞いて、「カワムラさんを探しているのね、みつけたら正面の三の門へ連れていきます」と言うと、彼も礼を言いながら走り去った。


 予定していた散歩コースを変更して、花の植え込みが多いあたりを歩いてみる。昇りやすそうな階段のある石垣の上にも行ってみる。カワムラさんらしき姿はない。カワムラさんはいったいいくつなのだろう。もしかしたら私ぐらいかちょっと年長あたりだろうか。そんなことを考えながら三の門を通り過ぎ、店じまいした土産物店あたりできょろきょろしていると、さっきの介護施設職員の男女が連れ立って、施設へ戻る道を急いでいるのが見えた。あの感じだと、カワムラさんはみつかったのかな。まさかみつからないまま、この時間に捜索を打ち切ることはないだろう。


 そう思っても気になるので、ニュースを追う。テレビでも翌朝の新聞でもそれらしき話題はどこにもない。どうやら無事だったようだ、と人知れず安堵した。

 

ぼくが逝った日  ミシェル・ロスダン著

 

 暇に飽かして乱読をしている。というよりも、庭や畑に伸び放題の草木から目をそらしたくて、終日寝転がって本ばかり読んでいるというところだろうか。それにしてもおもしろい本にはなかなかぶつからない。と思っていたのだが、あるのですねえ素晴らしい本というものが。


「ぼくが逝った日」は、風変わりなタイトルに惹かれて手に取った。ぱらっと見た著者紹介にも興味をいだいた。私とほぼ同年輩のオペラ演出家、この本は近年に書かれたのだが彼にとっては初めての小説だという。


 のっけから、この作品をどうしても書かねばならなかった切迫感が伝わってくる。著者と女優である妻は21歳の息子を突然亡くした。体調が悪いのを流感のせいぐらいに思っていたら、病状が急変して死に至ってしまった。体に紫斑が浮かび出る劇症型髄膜炎であった。両親は嘆き悲しむ。涙が流れ出て止まらない。そして自分を責めつづける。


 21歳といえば、反抗期をやっと脱して親ともそれなりに会話が成り立つころだ。父も母もそれぞれにそんな時間を楽しんだ矢先に、息子は亡くなってしまった。あの時もっとゆっくり時間を取ればよかった、あの先まで息子とともに散歩の足を延ばすことだってできたのに、と親の悔恨は尽きることがない。


 それでも容赦なく月日は過ぎていく。ふとしたきっかけで息子がいない悲しみが蘇って激しく動揺し、その一方でそのさなかにも空腹をおぼえて食事をする。無論のこと仕事にも復帰していく。そうした両親の8年間が、死んでしまった息子である「ぼく」によって時や所を自在に飛び越えて語られる。


 両親は喪失という事実を持てあましている。息子がまだその辺にいるように思いたくて、いろんな兆候をみつけては息子に接触しようとする。火葬した息子の遺灰、在りし日の写真、残された衣類、あるいは息子の友人が語る逸話などにすがりつく。息子を抱き寄せては引き離され、行きつ戻りつ日々の生を紡いでいく。それを読みながら、私も涙を誘われ、かと思うとたまらず笑いだしたりしてこの本を読み終えた。


 死んだ息子に、自分の死後の両親たちを語らせるとは、なんとうまい手を考え出したのだろう。若いまま逝った息子にとっては、親は往々にして鬱陶しい。自分の死を嘆き悲しむ親を、息子は慰めつつも時には辛辣に笑い飛ばしたりする。そうやって著者は自分の心をあちらから眺めこちらから眺め、息子のいなくなった日々をやっと生き延びたのだろう。悲しみはつづく。けれどそのうえにさまざまな思いを豊かに盛りあげて、死者をも包摂して人間のいとなみはつづいていく。

絽の浴衣  母の思い出3


 この涼しい信州でも、夏は祭りの季節だ。


 7月半ばに祇園祭がある。そしていつから始まったのか知らないが、私の子供のころはなかったドカンショ祭りが8月初旬。お盆になると花市があって、これは私が好きな行事のひとつだ。駅前から目抜き通りまでずっと道端に盆飾り用の野花が並ぶ。秋風が立ち始めると近くの鹿島神社の祭りがあり、真っ暗な森と谷に囲まれた小さい境内にひっそりと裸電球がともされる。子供を喜ばせようとして、形ばかりの夜店が数店ならぶ。どれも地元住民による手作りの食べ物や、ささやかな風船売りなどだ。


 夏の到来を告げる祇園祭は、昔はもっと盛大だった。昼間は各町内にある子供神輿がつぎつぎに繰り出す。ふだんは学校や登下校時に見慣れている男の子たちが、この日は神輿の担ぎ手となって急に大人っぽく見える。日盛りの坂道を、黒く日焼けした額に汗を光らせて担ぎ棒にぎっしりととっつき、天を仰ぐような格好で一団となって進んでゆく。彼らの口から発せられる掛け声は「わいよいわいよい」と喉元でくぐもり、まるで何かに取り憑かれた呪文のように響きわたる。


 彼らに比べれば、私たち女の子は何もすることがない。私は子供のころから祭りのようなにぎやかな場はきらいだった。だからせがんだ覚えはないのだが、ある祇園祭の日に母が浴衣を着せてくれた。子供心にもうれしかったのかもしれない。姉とおそろいの浴衣を着て家の門を出た。


 我が家の門は、300年も前に建てられたという北国街道小諸宿の間口10間以上もある本陣に付属する薬医門だった。門の前はちょっとした空き地になっていたから、近所の子供たちが縄跳びをしたり、近在の村から牛車できた百姓が牛を休ませたりもしていた。その片隅で得意さ半分恥ずかしさ半分の私と姉は、石に腰を下ろしていた。すると二人連れの老婆が通りかかった。野良仕事の帰りでもあろうか、農具を手に背負子を背負った二人は私たちに近寄ってきた。


「まあ、上等なおべべきせてもらって」と一人が、私の胸元を撫でんばかりに手を伸ばした。触れられたくなくて、私は後じさりした。するとうまい具合に、近所の顔見知りの近所のおばさんも通りかかった。
「まあまあ、知らない間にお母さんが仕立ててくれたのね。大変だったでしょうに」と彼女は言った。


 そんなことを言われたせいで自分の浴衣をしげしげと見直してみると、それは近所の子供たちが着ているものとはだいぶ違っていた。彼女たちの浴衣は、いまほど華やかではないにしても女の子らしい明るい色をところどころに配した木綿の浴衣だ。きょうだいでおさがりを着まわして、着古せば寝間着にでもしたものだろう。だが私たちの着ていたのは、いま思えば上等な絽の小花模様を散らしたものだった。上品な淡い色合いは、他の子供たちの浴衣に比べると寂しげに見えた。そしていまごろになって想像を巡らせてみるのだが、母は自分の数少ない着物の中から道行コートをほどき、その裏地を二人分の浴衣にしたのではないだろうか。それにしてもあのころ、戦後の物不足はまだ続いていたとはいえ、子供用の浴衣地さえも手に入れるのは難しかったのだろうか。


 母は戦況が悪化するなか、3人の幼子をつれ、トランクひとつを抱えてこの街に避難してきた。父の実家を頼ったのだ。私たちが住んでいた台湾の台南は、近隣に砂糖工場を多く抱えていたせいもあって米軍の空襲にさらされるようになっていた。砂糖工場ではアルコールも製造でき、それは飛行機の燃料に転用が利くからと爆撃の対象にされたという。そんなある日突然、近くの基地で待機していた特攻隊員たちが本土に送り返されることになった。彼らにはもう戦闘機さえ調達はされず、任務に就けるあてがなくなってしまったせいだという。彼らの乗る二隻の軍艦にわずかな空席があるので、家族を乗せたい人は乗せろと言われた父が、急遽妻子を遠く信州に送り出すことに決めた。


 出発までは4時間しかなかった。母は大急ぎで荷造りをし長旅の準備をした。子供が3人いるのだから必需品以外は持てるはずもなかった。そんななかで母は、手放すに忍びない着物を2,3枚荷物のすみに押し込んだのかもしれない。あのころはいざというときは着物は食糧と交換できたというから、それは賢い行動だったとも言える。


 その母はと言えば、祭りの当日は町内の年配者や父の身内である姑や小姑らの采配にしたがって一日忙しく働かなければならなかった。祭りと言えば古臭いしきたりや慣習がつきものだ。祇園祭の日は北国街道沿いの旧宿場の家々は、すべてが通りに向かって戸や襖を開け放ち、祭り提灯や家紋入りの大提灯を飾りつける。しかも宿場の本陣であった我が家は中心となる場だから、長く開け放った縁側に、この日ばかりはだれもかれもが好き勝手に腰を下ろす。ましてや神輿の担ぎ手は、ここで飲み物や食べ物を供されて接待されるのを楽しみにしている。


 夜が更けて祭りも山場となれば、本陣前では神輿が勢いよくぐるぐると回され、あるいは乱暴に上下にゆすられたりなどして祭気分をいっそう煽り立てる。見物人は次々に集まってくるから、接待はそれこそ大わらわであっただろう。それが過ぎても、神輿を納める時間などは昔は担ぎ手たちの気分次第だったから、それまでは夜明け近くなろうとも家は開け放ったままにするのが決まりだった。


 私たち子供は眠くなれば奥まった別棟の自宅に戻って寝てしまう。父母のいない家は妙に寂しかったが、それでも祭り疲れですぐに眠りに落ちたことだろう。翌朝起きて通りに出てみると、灯の消された祭り提灯などはそのままで、人けのない通りには、心なしか前の晩に群衆に思い切り踏みつけられた足跡のみが残っているようなもの寂しさがあった。


 母は、いつもの服装にもどって、いつもの家事をつぎつぎ片付けていく。母には祭りの名残は残っていない。母は祭りの話もほとんどしなかった、なぜ浴衣を作ってくれたのかも聞いたことがない。いつ作ったのかも尋ねもしなかった。あの上等な絽を、あんなふうに子供の浴衣に切り分けてしまうのは、なんだかもったいない気がいまでもする。けれど母があのときどんな思いで自分の着物に鋏を入れたかは、ついぞ聞きそびれたままだ。

ゴンちゃんが死んだ


 つれあいの記憶の衰えが気になっている。

 

 昨日、居間のすみに置いてある金魚鉢にカエルの死骸が浮かんでいた。仰向けになって四肢をひろげた無様な格好だ。
「カエルが死んでいる。こんなところで」と言うと、つれあいが、
「あ、僕が入れたんだ」と言ってティッシュペーパーでつまみ出して捨てた。

 

 生きたカエルなら、あんなところに入れられたら飛び出すだろう。もともと死んでいたカエルを入れたのだろうかと問いただすと、
「おぼえていない」と言う。

 

 この金魚鉢では、3週間ほど前に祇園祭の夜店で私が初めての金魚すくいをして手に入れた一匹の金魚を飼っていた。金魚すくいの水槽にいる金魚は、安く買いたたかれた売り物にはならない金魚だと聞いたことがあった。けれども夜店のおじさんが入れてくれた小さいビニール袋で泳いでいる金魚を見ているうちに、よし元気にしてやろう、という気がしてきた。

 

 それで祭り見物は打ち切って一人で先に帰宅した。まず金魚鉢を洗って水を入れ、庭から苔の生えた大きい軽石を拾って水中に沈めた。子供のころこうして大きい水槽に金魚やメダカをたくさん買っていたのだ。同じように金魚鉢をしつらえて、そのなかに夜店の金魚を放ってみた。

 

 金魚は、数日は石の下に潜り込んで、まるでいないみたいに静かだった。そのうちに環境に慣れたのか姿を現すようになって、なんだかはしゃいでいるような勢いで泳ぎ始めた。すると金魚すくいをしたときには気づかなかった黒い斑点が体中に現れた。金魚としては美しくはないが、大きくなったら池で泳ぐ鯉のようにかっこよくなるかもしれない、などと考えた。

 

 朝カーテンを開けるとき、
「ゴンちゃん、おはよう」と声をかけるようになった。
ゴンちゃんは、金魚の金を取って、それを黄金のゴンの読みで名付けたつもりだった。ゴンちゃんは、陽気な性格のように見えた。野性味のある丈夫な子かもしれない、と思ったりした。

 

 それが、たった3週間で突然死んでしまった。カエルの死骸を取り出したときに、ゴンちゃんは石の下に頭を突っ込んで、逆立ちのような格好をしていた。いままで見たことのない姿勢だな、とは思ったがそのままにしておいた。しばらくすると、階下からつれあいが私を呼んだ。「金魚が死んでいるよ」と。

 

 階段を駆け下りてみると。ゴンちゃんが浮かんでいる。つれあいが言うには、あまりじっとしているので石を少し動かしたら水面に浮かんできたのだとか。つれあいが、カエルと同じようにティッシュペーパーでつまもうとするのを止めて、せめてもと思いきれいな茶碗で救い上げた。そのまま庭に運んで、大木の根元を掘って埋めた。

 

 あんなに元気だったのに死んでしまったのは、つれあいが死んだカエルなどを入れたからだ。そうに違いないと思うが、彼を非難する言葉は自分の中に呑み込んでしまう。彼がカエルを入れた時の記憶がはっきりしない、と言う以上、責めても意味がないのだから。それに、死んでしまったゴンちゃんはもう蘇りはしないのだから。

映画「セールスマン」アスガー・ファルハディ監督


 イランの、たぶんテヘランの話だ。冒頭、アパートが崩壊するから避難しろと呼びかけられ、主人公夫妻や他の住人たちがあわただしく逃げ出す。その間にも窓ガラスや壁に、音を立てて大きなひびが走る。どうやら隣地の建築工事の影響らしいが、急速に進む都市化に不安を覚えさせる導入だ。


 主人公夫妻はともに同じ劇団に所属する俳優だ。夫は高校教師でもある。彼らはアーサー・ミラーの「セールスマンの死」の公演を間近に控えていて、劇中でも彼らは夫妻役を演じている。


 舞台稽古の最終日、「セールスマンの死」のなかで私には最も印象的だった場面が演じられている。劇中劇のセールスマンであるウィリーの出張先に、長男のビフが深刻な相談事をもって出向く場面だ。ビフはフットボールの花形選手で、父親からも周囲からもちやほやされ、大学にも簡単に迎え入れられると思い込んでいた。だが数学の教師は厳しくて、単位を落としてしまう。その尻拭いを父親に頼もうとして旅先まで会いに来たというのに、ビフが目にしたのは父親がホテルの部屋に娼婦を連れ込んでいた姿だ。「セールスマンの死」で、最後まで続く父と息子のあいだの齟齬や軋轢は、このあたりから始まっている。ビフはその後何もかもうまくいかず、自分に期待を寄せた父親を怨むようにさえなっていく。


 この劇中劇が巧妙にその後の展開を暗示し、現実のなかでふと生じた食い違いが思わぬ方向に発展するさまが描かれる。劇中劇の娼婦役の女優は、息子役の俳優がふともらした笑いを侮辱的だと受け取って怒りだし、稽古なかばで帰ってしまう。続きの稽古ができなくなり、主人公の妻は先に引っ越したばかりのアパートへ帰宅する。そして妻は、ドアホンが鳴ったのを夫の帰宅と思い込んでドアを開けておきレイプ事件の被害者となった。どうやら夫妻の前の住人が客を家に連れ込んで売春をしていたようだ。劇中劇に連なる不穏な娼婦の存在がここにもある。そこでレイプ犯は、かつての住人の客であろうと噂された。劇中劇の父と息子、あるいは夫と妻のあいだのわだかまりが、まるで木魂のように事件後の俳優夫妻の心のすれ違いへとつながっていく。


 妻は事件を警察に届けるのを拒み、劇団の仲間にさえ知られないようにする。公にしたら社会から抹殺されてしまうと恐れていて、またそれは現実なのだ。夫は犯人が落とした鍵束から犯人の車をみつけだし、さらに犯人を割り出す。ところが実は、真犯人は車の持ち主の若い男ではなく、彼が結婚しようとしている娘の父親だった。彼は老いぼれのセールスマンだ。おまけに心臓病を抱えている。彼はたまに将来の娘婿の車を使って荷物を運んだりしていたのだ。


 夫は復讐のため、彼がレイプ犯であることを家族に暴こうとする。娘の結婚を間近に控えた老いぼれセールスマンは、どうかやめてくれと懇願する。そのようすを見ていたレイプ被害者の妻は、犯人に憐れみを感じて夫に止めるよう諭す。


 結局家族に犯行を暴かれずにすんだセールスマンだが、主人公夫妻のもとから迎えに来た家族ともども家に帰ろうとしたところで心臓発作で死んでしまう。何も知らない妻は、夫への愛を口にしすがりついて泣く。


 場面は変わって劇場の楽日、「セールスマンの死」のラストシーンだ。今日家のローンも保険金もすべて払い終えたというのに、夫は自殺してしまった。棺に横たわる夫の遺体に、妻が問いかける。「ウィリー、私は泣くこともできない。あなたはなぜこんなことをしたの。いくら考えても私にはわからない」


 妻の夫への思いが、夫の妻への思いが、現実と劇中劇が響きあうように重層的に描かれる。近しい家族との心のすれ違い、生きることのむなしさと、ささやかな喜び。名作「セールスマンの死」を配することで、人間心理の奥深さを描くことに成功したかに見える。だが計算されすぎたドラマの落とし穴とでも言おうか、しっとりとした情感が感じ取れるかといえば、そこにはいささか不満が残る。

「終わりの感覚」ジュリアン・バーンズ著


 小説を読み始めるとき、近頃は必ずと言っていいくらい作者の生年や何歳のときに書いた作品かをチェックするようになっている。生まれた年が自分に近ければたいてい読んでみる。書いたときの年齢が自分に近ければ、絶対読んでみる。これはたぶん、私がいまの自分に戸惑っていることの反映だろうと思う。記憶力や集中力が低下しつつある。その現実に、他の人たちはどう対処しているのかを知りたいのだ。


 私の書斎の本棚の一角に「お楽しみコーナー」と名付けた場所がある。これから先、楽しみながら繰り返し頁を繰りそうな本を、既読未読を問わず集めてある。私は音楽、本、最近では映画も、気に入れば何回も味わう癖がある。ちょうど子供のころに、なじんだおとぎ話や童話を手にするや作品の世界に浸りきれたように、いろいろな世界に没入する手立てを集めているわけだ。


 さてその「お楽しみコーナー」でふと目に留まった本がある。ジュリアン・バーンズ著「終わりの感覚」だ。作者の生年は1946年、私と2年違い。2011年のブッカー賞受賞作だから、7,8年前に書かれたものだ。しおり紐が最終頁近くに挟まれているところを見ると、どうも既読本のようだ。読み始めてみたが、微妙な既視感はあるものの読んだという確信が持てない。けれどもいま思えば、やはり記憶のかけらが頭の隅にあったのだろう、200頁近くを1日ほどで読み終えた。そして結末部にいたって、ああこれは確かに読んだと、そのときの感情までよみがえった。痛ましすぎる出来事があらわになるのだ。


 内容は、主人公・私が60代半ばを過ぎて勤めも引退し、来し方のあれこれを追想するものだ。このあたりの心境は、私と似ていなくもない。主人公は、高校時代の遊び仲間とはいまもなおほんの時折会って歓談したりする。少年から大人への移行期にはだれもが経験するようなたわいない出来事、友人への競争心や嫉妬、女友達への熱い思いや失望などがつぎつぎと独白のように綴られる。飽きることなく読ませるのは、誇張のない心理描写のせいだろう。


 主人公には、大学に入って間もなくガールフレンドができた。彼女の家に夏の一週間招かれたりもした仲だった。しかし彼女にはただじらされていたような、もてあそばれていたような、いささか不快な気分の残るつきあいでもあった。彼女は、主人公の遊び仲間に紹介されると、主人公より頭の良い出世しそうな友人に接近し、彼に「乗り換えた」。頭の良い友人からその事実を手紙で告げられた主人公は、怒りにまかせて二人あてに呪いの手紙を書く。


 それから40年以上がたち、自分が書いた呪いの手紙のことなどすっかり忘れたころのことだ。主人公も結婚と離婚を経て、娘や元妻と小さな波風はありながらも穏やかな交流を続けている。ところがある日、昔のガールフレンドの母親が死にあたって彼に思わぬ遺品を託したとの連絡を受ける。遺品を受け取るべく元ガールフレンドに接近した彼は紆余曲折の末、元ガールフレンドから自分がかつて書いた呪いの手紙を見せられる。そして彼女が、どうやらその呪いよりもさらに悲惨な人生を歩むことになったらしいことを知るのだ。そう深刻にも思わず、若さゆえの煮えたぎるような嫉妬心から発した言葉の責任を、どうやったら取れるというのか。


 過去に向き合うことは、現実の過酷さに直面することでもある。過去は決して甘い懐かしいものばかりではない。
 それにしても私は、なぜこの本を「お楽しみコーナー」に収めたのだろう。