「終わりの感覚」ジュリアン・バーンズ著


 小説を読み始めるとき、近頃は必ずと言っていいくらい作者の生年や何歳のときに書いた作品かをチェックするようになっている。生まれた年が自分に近ければたいてい読んでみる。書いたときの年齢が自分に近ければ、絶対読んでみる。これはたぶん、私がいまの自分に戸惑っていることの反映だろうと思う。記憶力や集中力が低下しつつある。その現実に、他の人たちはどう対処しているのかを知りたいのだ。


 私の書斎の本棚の一角に「お楽しみコーナー」と名付けた場所がある。これから先、楽しみながら繰り返し頁を繰りそうな本を、既読未読を問わず集めてある。私は音楽、本、最近では映画も、気に入れば何回も味わう癖がある。ちょうど子供のころに、なじんだおとぎ話や童話を手にするや作品の世界に浸りきれたように、いろいろな世界に没入する手立てを集めているわけだ。


 さてその「お楽しみコーナー」でふと目に留まった本がある。ジュリアン・バーンズ著「終わりの感覚」だ。作者の生年は1946年、私と2年違い。2011年のブッカー賞受賞作だから、7,8年前に書かれたものだ。しおり紐が最終頁近くに挟まれているところを見ると、どうも既読本のようだ。読み始めてみたが、微妙な既視感はあるものの読んだという確信が持てない。けれどもいま思えば、やはり記憶のかけらが頭の隅にあったのだろう、200頁近くを1日ほどで読み終えた。そして結末部にいたって、ああこれは確かに読んだと、そのときの感情までよみがえった。痛ましすぎる出来事があらわになるのだ。


 内容は、主人公・私が60代半ばを過ぎて勤めも引退し、来し方のあれこれを追想するものだ。このあたりの心境は、私と似ていなくもない。主人公は、高校時代の遊び仲間とはいまもなおほんの時折会って歓談したりする。少年から大人への移行期にはだれもが経験するようなたわいない出来事、友人への競争心や嫉妬、女友達への熱い思いや失望などがつぎつぎと独白のように綴られる。飽きることなく読ませるのは、誇張のない心理描写のせいだろう。


 主人公には、大学に入って間もなくガールフレンドができた。彼女の家に夏の一週間招かれたりもした仲だった。しかし彼女にはただじらされていたような、もてあそばれていたような、いささか不快な気分の残るつきあいでもあった。彼女は、主人公の遊び仲間に紹介されると、主人公より頭の良い出世しそうな友人に接近し、彼に「乗り換えた」。頭の良い友人からその事実を手紙で告げられた主人公は、怒りにまかせて二人あてに呪いの手紙を書く。


 それから40年以上がたち、自分が書いた呪いの手紙のことなどすっかり忘れたころのことだ。主人公も結婚と離婚を経て、娘や元妻と小さな波風はありながらも穏やかな交流を続けている。ところがある日、昔のガールフレンドの母親が死にあたって彼に思わぬ遺品を託したとの連絡を受ける。遺品を受け取るべく元ガールフレンドに接近した彼は紆余曲折の末、元ガールフレンドから自分がかつて書いた呪いの手紙を見せられる。そして彼女が、どうやらその呪いよりもさらに悲惨な人生を歩むことになったらしいことを知るのだ。そう深刻にも思わず、若さゆえの煮えたぎるような嫉妬心から発した言葉の責任を、どうやったら取れるというのか。


 過去に向き合うことは、現実の過酷さに直面することでもある。過去は決して甘い懐かしいものばかりではない。
 それにしても私は、なぜこの本を「お楽しみコーナー」に収めたのだろう。


 

エスペラント語の辞書  母の思い出2


 大学に入ったころ、私はかなり不貞腐れていた。「べつに大学など行きたくもないが、これが家を離れるいちばん簡単な道だ」などと、いま思えば鼻つまみの生意気な捨て台詞を吐いて東京へ出て行ったのではなかったか。


 そんなふうに始まった大学生活だったが、通学時の乗換駅だった渋谷に大盛堂という大きい書店をみつけて、そこに立ち寄るのが楽しみになった。4月なかば、そこの辞書コーナーでエスペラント語の辞書をみつけ、すぐに買い求めた。母の誕生日が近かったのでプレゼントしようと思ったのだ。鼻っ柱強そうにふるまっても、はじめての一人暮らし、しかも静かな地方の町とはまるで違う東京の喧騒のなかで、はやくも里心がつきはじめていたのかもしれない。


 母は若いときからエスぺランチストだった。なんでも神戸に住んでいた女学校時代に、先生に勧められて学び始めたという。1930年ごろのことだ。子供のころ、母がふと口にした言葉が、そのいかにも残念そうな口ぶりとともに私の心に刻まれていた。「子供が生まれたら、日本語とエスペラント語で育てようと楽しみにしていたけれど、戦争に振り回されてしまってそれどころではなかった」。私たちきょうだいは、太平洋戦争開戦の少し前から戦後にかけて生まれている。敗戦間際には、母は3人の幼子をつれて命からがら、はるか熱帯の地・台南から信州の小さい町まで、遠路を旅してきた。ここの父の実家にとりあえず身を寄せたのだが、結局はそのままここに住み着くことを余儀なくされた。


 エスペラント語の辞書は、私から母へのはじめての誕生日プレゼントだった。母がどのような気持ちで受け取ったかは、筆まめな母のことだから手紙をくれたはずだが、私は何もおぼえていない。けれどそれをきっかけに、母は着々と活動を始めた。エスペラント協会が発行していた月刊雑誌の購読を始め、それを通じて昔のエスエペラント仲間と連絡を取り、海外のエスぺランチストともさかんに手紙をやり取りするようになった。たまに上京してくる母に会っても、買い物や子供たちとの食事はさっさと切り上げて、「じゃさよなら。私は早稲田に行くから」と立ち去るのが決まりとなった。エスペラント協会は新宿区早稲田町にあったのだ。


 思えば、エスペラントは信州での生活が20年になろうとしていたころ、母が手にしたオアシスであったかもしれない。母が、自分の子供とエスペラント語で会話したかったのにかなわなかったのは、戦争だけでなく人間関係の面倒くささにも原因があったと思う。父は次男だったが長兄に戦死されたため家業を継いだ。周囲には父の姉妹やその家族がいて、住む家こそはちがっても大家族さながらの交流があった。遠い土地で生まれ育った母は、装いも日々の食事も立ち居振る舞いさえもが彼女らとは違っていて、風習になじむのはむずかしかったようだ。母が何かと過度に気遣うようすに、私は子供ながら心を痛めていた。そんなことを吹き飛ばしてしまう力が、母のエスペラント語にはあったのではないか。


 と、こんなことを書いている途中で、母自身がエスペラント語にまつわる思い出を書いている文章をみつけた。神戸エスペラント協会が1990年に発行した「神戸のエスペラント 年表と随想」に寄稿したものだ。タイトルは「今日の私の生活があるのはエスペラントから」というものだ。ちょっと変なタイトルだが、いまもなおエスペラントの力を借りて生きているという母の気持ちが込められているように思う。前文には寄稿したいきさつが書いてある。1988年にロッテルダムでのエスペラント世界大会に参加しての帰途、母は芦屋のエスペラント会に人と知り合ったという。それで戦前のようすをいろいろ尋ねられ、寄稿するよう依頼されて書いたのがこの文章だ。


 母が書いたその文章によれば、母は私がエスペラント語の辞書を贈るよりも4年も前、1960年に知人からエスペラント協会報を贈られたのをきっかけにエスペラント語にふたたび触れ始めていた。私はたぶん反抗期の真っ盛りで、母の動向など全く目に入らなかったのだろう。その後1972年には、松本郊外で開かれた甲信越エスペラント大会に参加した。「40年ぶりにエスペラント語を聞き、私もそれを口にして、大勢の方々と楽しい一日を過ごしました。これが火付けとなって私のエス熱が再燃し、同年のポーランド大会、翌1973年のユーゴスラビア大会に参加という次第で今日にいたっています」と母は書いている。母は毎年、世界のどこかで開かれるエスペラント大会に参加するのを楽しみにしていた。


 ふだんは小さい町で行動半径1キロメートルというような暮らしをしている母が、打って変わって飛行機で飛び立っていくのは、まぶしいような出来事だった。母には向こう見ずなやんちゃな一面があった。あるとき母は、成田空港を出発する前の晩に都内に住む姉の家に一泊した。母が入浴中に姉が母のスーツケースを移動させると、思いがけないほど軽かったという。不審に思った姉が無断でスーツケースを開けてみると、中身はほとんど空っぽだった。母は2週間あまり家を留守にするための用事を片づけるのに追われ、自分の荷造りまで手がまわらなかったのではないだろうか。驚いた姉は近所の商店街に走って下着類などを買い集め、手持ちの洋服の中から着替えに役立ちそうなものを選んでスーツケースに詰めた。それを知った母は「荷物を重くしてしまった」と不機嫌だったという。「日用品ぐらい、世界大会を開くくらいの町なら、買えないはずはない」と。母はそんなふうにしてでもエスペラント仲間と集いたかったのだろう。


 思えば母は不思議な人だった。子供にとっては母親は身近すぎて、矛盾だらけの言動や、支離滅裂な感情の発散まで、いやおうなく目にしてしまう。私はいまだに母を、ただ懐かしく甘やかな気持ちで思い出すことはできない。けれど、母がエスペラント語に出会った時の感激をつづった部分を読んで、母の行動の奥底にあった思いに触れた気がした。こんな文章だ。「1930年ごろ、コミンテルンの活動が盛んに伝えられ、社会主義による新しい世界を創造しようという意気込みと連動するように、万国共通語であるエスペラント語への関心が高まっていました。合理的な造語法と語法を持ったエスペラント語には、共通語としての実用性だけでなく、新しい生活様式や思惟方法まで身につけられそうな感動がありました。それがいまにいたるまで、私をエスペラントへと駆り立てています」


 いま私の手元には、母が残したエスペラントの辞書や書籍が残されている。母の、あの生活下手とでも呼びたいような不器用な生き方は、もしかしたら若くしてエスペラントに理想を見出してしまったがゆえかもしれない。心に理想など抱かず、ただただ現実に這いつくばるように生きるならば、日常の生活はもっとスムーズにまわったことだろう。母はこの世の現実に常に違和感を抱きつつ、日々の生活に追われ、ふと立ち止まってはエスペラントが描いた平和な世界に心を寄せて自分を立て直して、この世での生を終えたのかもしれない。

 

海   母の思い出1


 山国信州では、小中学校の夏休みは4週間しかなかった。
 それでも強い太陽の光の下で、真夏の暑さは充分に堪能した。だがなぜだろうか、夏の思い出にはカンカン照りの日差しに隈取られた、そこはかとない悲しみがまとわりついている感じもする。

 

 子供たちは、暑いさなかにもっともっと暑さを味わいつくしたくて、日盛りの野原へ、はては足裏を焦がしそうに熱い石を踏みしめて川原へとくりだしていく。そんな元気あふれる子供たちのために、だれが主催したのかは知らないが、日帰りで海に遊びに行く企画があった。この町から一番近い新潟の海へ、バスで早朝に出発して一日海で遊び、日暮ごろにはまたバスに乗って夜遅く帰り着く。あのころは高速道路もなかったし、車輌の性能もいまほどよくはなかったから、片道4時間はゆうにかかったのではないか。帰りの夜道をひた走ったバスが駅前広場に到着すると、なかには眠りこけて目を覚まさない子もいて、だれかがおんぶして家まで届けたりしたという。だが私はと言えば、バスには酔うし、3時間も日光を浴びたものなら熱を出して寝込むような子供だった。だから海へのバス旅行には無関心だった。

 

 私の母はちがった。バス旅行には、小学校高学年なら子供だけでも参加できたが、小さい子は親子連れだった。小中学校の教師数人が世話役となり、バス一台ぶんの参加者を引率したのだ。我が家では子供たちは行きたがらないのに、母が一人で参加した。子連れの母親たちは、自分は泳ぐ気などあまりなく子供を見守るだけだったらしい。だが私の母は泳ぎたかったのだ。

 

 母は少女時代を神戸の須磨で過ごした。家から海までは歩いて15分たらずだから、しょっちゅう泳ぎに行った。そればかりか母は女学校時代は水泳選手だった。兵庫県代表として、東京の神宮プールで開かれる全国大会にも出場したという。そのときは神戸駅に集まった見送りの人たちに、万歳三唱で送り出されたそうだ。「でも、帰ったのはだれも知らなかったの。ひっそりと戻ってきたんよ」と笑いながら話してくれたのは、祖母だ。兵庫県では一番でも、神宮プールでの成績はかんばしくはなかったのだそうだ。何かの折に気づいたことだが、1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得した、「前畑ガンバレ」で有名な前畑選手も母と同い年だ。当時、軍国主義の台頭で頑健な男子を育てるために水泳が推奨されたと聞くが、その風潮が女子にもおよんでいたのだろう。

 

 母はどちらかといえば華奢な体つきで、スポーツをやりそうにはとても見えなかった。それでも兵庫県代表なのだ。プールで特訓を受け、水から上がるとコーチが差し出すレモンにかぶりついて丸かじりし、手のひらに配られた塩をなめたという。それほどくたくたになるほどの猛練習を積んだことを、母は誇らしげに話していた。海では、淡路島まで遠泳をしたこともあるという。

 

 そんなに海が好きで泳ぎも好きだったのに、母はこの山国に来てしまった。戦況が差し迫って空襲がはじまったころ、母は3人の子供をつれてとりあえず父の実家に身を寄せることを余儀なくされた。戦争が終わって1年半ほどで父が戻ったときには、父の長兄の戦死の報がとどいていた。それで父は元の勤務先には戻らずに、この町にとどまることにした。そのようにしてはじまった信州での生活で、母は泳ぐ機会も失ってしまったわけだ。

 

 海へのバス旅行に参加するのを決めた日、母は洋品店で水着を買ってきた。あのころはスポーツ用品店などはなかったように思う。裾にひらひらと短いスカートのようなものがついた紺の水着を、母は「これしかなかった」と照れ笑いしながら小さいバッグに詰めた。そして家族がまだ寝静まっている早朝に、一人起きだしてバスで出かけた。

 

 その翌年は、バス旅行の企画が決まると、近所に下宿していた教師の一人が母を誘いに来た。彼は泳ぎと碁が大得意というスポーツマンタイプだった。前年に母が一人で参加し、海辺に着くや一人で沖へと向かい、黙々と抜き手を切って泳ぎ続けるのを、その教師は感嘆して見ていたという。「奥さん、やりますねえ」と彼は言った。「久しぶりに競泳をしてみたい」と母が言った。「やってみますか」と彼は言い、二人は沖で並んで泳いでみた。すると母が勝ってしまったのだという。

 

 だから母が一緒に行ってくれると心強い、とその教師は母を誘いに来たのだ。母は1年前に買った水着をバッグに詰めて、同じように早朝に一人起きだして海へと出かけて行った。母が帰る時間まで起きていられず寝てしまった私は、翌朝母の腕や額に残っている赤い日焼けの跡を見た。けれども母は、黙って朝食の用意をしてやはり黙って食事をすませた。1年前にはあんなに楽しそうだった海の話を、ひとことも話そうとしない母を不思議に思う一方で、その理由を私はそのときすでに察していたような気がする。

パソコンが壊れた

 

すっかり日常のツールになってしまっているパソコン。いちいち意識せずに便利さを享受しているせいで、いざ機能しなくなったときの気分もまた独特だ。なんだか無性に腹が立つ。怒りをぶつける対象が不明のまま腹立ちだけが増幅していく。だいたい、壊れた理由がわからない、予告もなしに突然動かなくなる、蓄積したデータが無事取り出せるかどうかもわからない。まるで謂われなく罰を下されたみたいな理不尽な気分だ。

 

私は仕事がら、常に2台以上のパソコンを手元に置いてきた。クラッシュするときは、なぜか大事な仕事を抱えているときが多いという、被害妄想的な気分のせいだ。現在使っているのは、動画の編集に便利なようにと5年ほど前に購入したNECのValuestar。もう一台は8年ほど前に購入したTOSHIBADynabookだ。今回壊れたのは新しく上等なはずのValuestarだ。いつもどおりに夜に使い終えてからシャットダウンした。翌朝いつものように電源スイッチを押したが、うんともすんとも言わなくなっていた。手の施しようがない。

 

それで、いまは使い分けていたタスクをすべてDynabookでやっている。どこか心細い思いがあるのは、これが3年ほど前に起動しなくなったことがあるせいだ。そのときも何か締め切り間近の仕事を抱えていた。原稿はいつも4か所に保存しているから心配はなかったが、使用中の資料が膨大にパソコン内にあった。幸いなことにこのときは不具合の予兆があったので、大急ぎで資料を片端からメモリーに保存した。おかげで、もう一台のパソコンで仕事は無事継続できた。

 

しかもあの時ラッキーだったのは、Dynabookが自力で回復して起動するようになったことだ。あのころはWindows7だったかWindowsXPだったか忘れたが、自己回復の機能があるから電源を入れておくといいと助言してくれた人がいた。そのとおりにしたら、3日後にふいに目覚めたみたいに、あの懐かしいWindowsのマークが画面に現れた。

 

けれどもその時の後遺症か、このDynabookはいくつかの不具合を抱えている。メールソフトが機能しないので、webメールを使うしかない。マイクロフォンが機能しないので、スカイプが使えない。それに2時間以上使うと異様に熱を帯びる気がする。だからクラッシュを恐れて、熱くなるとパソコンを休ませている。

 

そんな状態だから、目下の課題はさて今後はパソコンをどんなふうに使っていくかを決めることだ。しばらく前から考えていたタブレット端末の導入に踏み切るべきか。タブレット端末の画面に現れるキーボードが使い勝手が悪くて嫌いなので躊躇していたが、最近キーボードを外付けして使うと便利だと知った。

 

または、思い切ってもう一台はアップルにするか。これは娘の影響だ。彼女は完全なアップル派で、アップルを称賛する。実際パソコンの歴史を振り返れば彼女の論にも一理はある。事実彼女は、一台のアップルをかついで世界のどこへでも出かけていき、重要な仕事も含めて酷使し続けているが、ついぞトラブルの話は聞かない。

 

パソコンの選び方は、使い方によって大きく異なるから、意見を聞いてもすぐには参考にはならない。いま意見を求めている友人は、部外者の私にはわからないけれど腕のいいプログラマーだ。少しぐらいのトラブルならば自分で直してしまう人だから、やはり選び方は私とは大きく異なるだろう。だが有用な助言をもしかしたらもらえるかもしれない。

 

さて、どうしたものか。もう一台が壊れているという不安にも、ここ数日で少し慣れてきた気はするのだが。

幹事疲れ

 

 

高校を卒業してからもう55年もたつ。

今年も同級会をやることになって、初めて幹事を引き受けた。3年ほど前までは地元を離れて東京周辺で仕事をしていて突発的な用事がしょっちゅうあったので、幹事などはしり込みしていた。同級生も、忙しいだろうからとそれを許してくれていた。けれどここ数年地元で暮らすようになり同級会への参加も増えた。お世話になりっぱなしなのは心苦しいので、幹事を引き受けてみた。

 

手伝うと名乗りを上げてくださった方もいて幹事は4人になった。居住地は小諸、臼田、小海、前橋とばらばらだ。だが遠方の前橋在住の人が、会場の旅館を見つけて交渉してくれた。臼田と小海の人が会計係を買って出てくれた。それで私は、案内状の印刷と発送、名簿を数か所訂正して印刷するだけでよいこととなった。

 

同級会の宿は別所温泉、高校があった上田のすぐ隣だ。うまい具合に同級会コースを設定している旅館がみつかり、10人以上ならだいぶ割安になるという。それで他の幹事たちは電話で勧誘などもしてくれたらしく、参加者は14人になった。

 

多くの人が車でやってきた。腰や膝に痛みを抱えている人、左足がしびれている人、さまざまな問題を抱えていても、皆元気なものだ。腰痛のひどい人は、座っていても横になっていてもいたいのだから、遊びに出かけるに限るという。毎年家で作っている数種類の漬物を持参して、皆に回してくれる。おいしい、これは去年より甘い、もう少し塩気が利いていてもいいね、などと意見が出る。

 

しかし何といっても楽しみなのは、どうやら延々と続くお喋りだ。2年前に夫を亡くした。息子が結婚しないのが悩みの種だ。孫が大学受験を控えていて夜食づくりが大変だ。などなど、家族の事情を知ってくれているからこそ話せる事柄について、こまごました話が交わされているらしい。

 

私はせっかく温泉に来たのだからと、お喋りの場をするりと抜け出しては湯に浸る。客も多くはなく、温泉の湧き出る音が聞こえる静かな風呂場でくつろぐ。するとここでも、連れ立ってきた同級生たち数人がまた何やらお喋りをしている。

 

夜が明けた翌日も、なかなか別れがたい様子だ。8人ほどで連れ立って北向観音安楽寺三重塔などを見て回った。ここが実家の菩提寺だったと、子供の時の法事の様子を話してくれた人がいた。国宝だという三重塔は、ほんとうに美しい姿をしていた。しかも周囲は、この季節のみずみずしい緑一色だ。気づけば一行のなかには腰が痛い膝が痛いという人が4人ほどまざっていて、手すりや杖を頼りにゆっくりと三重塔までの坂道を登ってくる。そのゆったりペースに合わせていると、何やら別世界に踏み込んだ心地さえした。

 

昼食は、地元の人ご推奨の店に3台の車を連ねていった。私は先導する軽自動車に乗せてもらった。運転者は高校時代わりに仲の良かった長田さん。3年前に夫を亡くし、いまは畑を守りながら一人暮らしをしている。料理上手の腕を買われて道の駅で売る「おやき」づくりに駆り出されることもあるという。畑や庭先でとれる野菜や果物を使った保存食はどれもおいしい。今回私は、皆に内緒で昨年作ったイチジクの砂糖煮をどっさりいただいた。作って冷凍庫に保存していたのを出してきたという。長田さんの運転はとても着実で安心だった。

 

昼ごはんを食べながらもお喋りは続く。窓の外には草花がまぶしいほど咲き誇り、その向こうを1時間に2本ぐらいしか通らない上田電鉄の電車が走り抜けた。この電車で通っていた人も、お喋りしている中に2人ほどいるはずだ。

 

帰宅すると、くったりと疲れていた。せっかちな私が、同級会をいったん解散した後も名所めぐりや昼食にまでつきあったのは、半分は幹事の義務感だったかもしれない。そして半分は、このあたりの小さい町で暮らす人々のペースに慣れてきたせいかもしれない。いままで味わったことがない種類の楽しい時間だった。

風邪と夢

 

軽い風邪をひいたようで、朝起きるとき喉がざらつき微かな頭痛がする。それで数日のあいだ用心して、朝晩念入りにうがいをし、時折風邪薬を飲んだりした。どうやら発熱にはいたらずにやり過ごしたが、思えば昨年もこの時期に風邪をひいて、熱のために8日間ぐらい寝込んだのではなかったか。初夏の風邪が癖になどならぬよう気をつけなければいけない。

 

私は薬に過敏な体質なので、薬は極力飲まないようにしている。だが今回はいくつか外せない予定が入っていたので、一日に一回夕飯後だけ風邪薬を服用して早々と寝床に入った。風邪のせいと薬のせいでよく眠れる。だが薬など飲んでいない時と比べて、どうも眠り方がヘンだ。半醒半睡というか、寝ているのに頭の一部が冴えているようで、妙にリアルな夢を見た。

 

ひとつは、絶対に思い出したくない恥ずべき行いが夢で事実どおりに再現された。夢の中に、こんなこと二度と思い出したくなかったのに夢に出てくるなんて、と嘆いている自分がいておかしかった。しかし幸いなことに、その行いが何だったかは目が覚めたら忘れてしまっていた。

 

もうひとつは、我が家のロボコンのことだ。ロボットクリーナーを、私はロボコンと呼んでいる。我が家で二台目の現在のロボコンは、ツカモトとかいう小さいメーカーの製品だが、小型でシンプルで価格も安く使い勝手もいい。一台目はバッテリーが切れそうになると自分で充電器に戻るおりこうさんだった。現在のロボコンはバッテリーが切れると止まってじっとしているので、よしよしと抱き上げて充電器まで戻す。前のはバッテリー切れ直前にあわててお尻を突き出して充電器に突進する姿がかわいかった。いまのはその点は、淡々と働き、動けなくなると止まるのみだが、それもまた愛らしい。

 

その2台目ロボコンが故障した。後ろ向きにしか進まなくなり、しかもわずか進むと止まってしまう。取扱説明書を取り出してチェックしてみたがどうにもならず、メーカーに連絡をして点検修理のために送り返すことになった。担当者からは本体と付属品のコードや充電器を同梱するようにと言われた。

 

いざ故障となるとやはり不便で仕方ないので、すぐに梱包して送った。しばらくすればロボコンは元気になって帰ってくるだろう。そんなことを思っている時期に、ロボコンの夢を見たのだ。ロボコンは旅に出ていた。電車に乗っている風な具合に、私がビニールや紙に包んで入れた箱の中に、窮屈そうに鎮座していた。わきに何やら黒くて四角い重そうなものがあり、ロボコンはそれが自分の肩あたりに触れるのを嫌がっているふうだった。

 

不思議な夢だったなあと思っているところへ、ロボコンが帰ってきた。修理完了品とのラベルが貼られたきれいな箱に入っていた。ああよかった元気になったのだな、と喜んで手早く荷を解いた。するとロボコンは点検時に汚れを取ってもらったらしく、出かけた時より心なしか美しくなっていた。添付されていた書類には、故障はなかったと書いてあり、使用上の注意事項が分かりやすく書かれた紙も添えられていた。

 

そして思いがけないことに、ロボコンの隣には、ロボコンとは無関係の大きい四角い充電器が入っていた。それは我が家の別の掃除機、マキタのコードレスクリーナー用の充電器で、それが証拠にマキタと大きく製品名も書いてある。ロボコンの充電器は本体にふさわしくコードにちんまりと付属している小型なものだ。それなのに、充電器を同梱しろと言われて、私がうっかり別の掃除機の充電器を入れてしまったらしい。

 

いずれにしても、ロボコンは元気できれいな姿で帰ってきた。そしてただロボコンにくっついて旅をしたに過ぎないマキタの充電器も、何食わぬ顔で帰ってきた。それにしても、ツカモトのお兄さんたち、笑ったことだろうな。このお客は、何を考えているのだろう、うちのロボコンにマキタの充電器が必要だと本当に思っているのだろうか。心配だなあ、これからも無事に使ってくれるかしら、などと。

 

だが考えてみれば風邪薬がもたらした夢は、このことだったのだ。私がロボコンに無駄な荷物を背負わせて旅立たせたことが、夢の中に出てきたわけだ。夢ってヘンなものだ。マキタの充電器を荷物に入れつつ、私の心の中にほんの微かな疑問がわいたのを、私本人は忘れてしまっていたのに、頭のどこかの回路を使って夢が教えてくれたということになる。しかしそれが風邪薬の作用であるとしたら、やはり薬はなんとなく怖い。

アカシヤが倒れた

 

3日ほど前、晴天続きで畑が悲鳴を上げていたところへ、やっと雨が降った。夜半から夜明けにかけてかなりの雨が降るとの予想だったから、これで畑の作物も生き返ると胸をなでおろした。

 

朝起きるとまだ雨はしとしとと降り続いていて、庭の草木も生き生きと美しくなっていた。もっと降れもっと降れと祈りながら朝ご飯を済ませた。いつものように新聞を取りに行った夫が、「大変だ」と言いながら戻ってきた。「門のそばの木が倒れている、道路をふさいでしまっている」などと言うが、木の名前を言わないので状況がつかめない。

 

とにかく傘をさして門まで出てみると、ほんとうに大変なことになっていた。いまをさかりにびっしりと白い花をつけたアカシヤが、根元からばったりと倒れている。どうやら花に雨水がたまってその重さに耐えられなかったらしい。幹の途中がフェンスによりかかり、斜めになった大きい樹木が白い花の房をゆさゆさと揺らしながら道路一面をおおってしまっている。

 

幸い我が家は住宅街のはずれにあり、交通量は少ないうえに簡単に迂回できる道路もある。だがどうしてもここを通りたい車も無いわけではないから、とにかく道路の半分だけでも通れるようにしなければならない。鋸を出して、自分で切れそうな枝を切り落とす一方で、手に負えそうにない太い幹を切ってくれそうな人を思い浮かべた。

 

桜田さんに頼もう。市役所関係の仕事で週に4日ほどは出勤しているようだが、この時間ならまだ家にいるだろう。3年ほど前に前代未聞の大雪に見舞われたときに、門から玄関までの雪かきを請け負ってくれた縁で、その後も何回か手に負えない庭仕事などを頼んでいる。

 

電話をして状況を説明すると、早朝の電話にべつに驚いた風もなく、桜田さんはすぐに軽トラックで駆けつけてくれた。そして手早くフェンスから飛び出している太い枝を切り落とし、軽トラックの荷台に積んで持ち去ってくれるという。フェンスのなかに斜めに倒れている幹は、数日中に片づけるからと言うと、雨の中をさっと走り去った。

 

それにしても我が夫のなんと頼りないことか。雨に濡れながら動き回る桜田さんと私の傍らで、この非常事態だというのに片手で傘をさしたまま、形だけ片手に鋸を持ってうろうろするのみだ。猫の手にも何もなりはしない。しっかりしてよ、この歳になってつれあいに愛想をつかすようなことになったら、おたがい面倒くさいよ。そう心中でつぶやきながら、さっさと家のなかへ消えた後ろ姿に舌打ちしたい思いで道具などの後始末をした。