ユリノキを返せ!

花見が終わり、木々の若緑がまぶしく萌え出る季節になった。周囲の緑が日に日に増えて窓の外を見ても、山を見ても、地面を見ても、そして鏡の中までが緑色になっていく。いつもなら心躍る時期のはずなのだが、今年は気が沈みがちだ。というのもこんなことがあったのだ。

 

1月末のことだ。前の道路にいきなりクレーン車が現れた。市立ふれあい会館の横手の生け垣を刈りだしたと思ったら、その内側にある木を切り始めた。あれよあれよと思う間に大木が3本なぎ倒されてしまった。市役所に電話をして担当部署を探してもらい、なぜ木を切るのかと抗議などをしているうちに、1本の木を残してクレーン車は引き上げていった。いま思えばこのとき私は、私の抗議が功を奏したのかなどと能天気なことを思っていた。

 

ところが翌々日、またクレーン車が来た。と思ったら残った1本にロープをかけ始めた。たまらず私は家を飛び出し、作業監督をしていた区長にやめてくれと訴えた。一昨日市役所に電話をしてもらちが明かなかったし、その日は土曜日で市役所には担当者が出ていないとのことだったから、それしかないと思ったのだ。

 

区長の説明を聞いて驚いた。伐採する理由は、落ち葉が多いからだというのだ。しかも、伐採は区の三役会議で決めて、市役所に何回も足を運び1年かけて決裁を下してもらったもので、手続きに遺漏はない、という。いまになって思えば、この区長の言いぐさはつまり「役員が決めたことだから、ただの区民がつべこべ言うな」ということだ。

 

この4本の木は、樹齢30年を超えるユリノキだった。なるほど落ち葉は多いが、若緑の芽吹きから始まって、夏には深い木陰をつくり、ユリに似た白い大ぶりの花をつける。ユリノキを「妖精が住む木」と呼ぶ地方があると聞いたことがあるが、花が咲くとほんとうに葉陰から妖精がのぞいているような雰囲気がある。そんな雰囲気のある木に無意識のうちにも愛着を抱き、それにまつわる思い出を育んできた人も多いはずだ。そんなことを必死に言ってみたが、区長は聞く耳を持たずに作業の指示を出した。抗議する私の目の前で伐採は着々と進められ、あとには4本の木が枝を広げていたあたりにぽっかりとした空間だけが残された。

 

それにしても必死で切らないでくれと頼んでいる人がいるのに、あれほどの大木を平然と切る区長の心中は、私には理解不能だ。それもただ「落ち葉が多い」という理由だけで。4本の木があった場所に目が行くたびに、「ユリノキを返せ」と叫びたくなる。今度区長に会ったら言ってやろう。「ユリノキを元に戻してください」と。市の木なのに、周辺の住民の意見も聞かずに、しかも事前の通知も一切なしに切ってしまったのだから。

 

 

アニータ・ブルックナー著『嘘』

アニータ・ブルックナー著『嘘』を読んだ。

あれ、この人、こんなに面白い作品を書く人だったかしら。前にちらっと読んだのがいつのことなのか覚えてはいないが、あのときは読み取れなかったのかなあ。

 

 

主人公はロンドンに住むアナ。中年を過ぎた独り身の女性。彼女は母の最期を献身的に世話をして看取り、すると母と二人で長年暮らしたどっしりとしたマンションの住まいをあっさりと処分して、こぎれいな高級マンションで一人暮らしを始めた。

 

 

思えばアナは、母が望むとおりに生きてきた。裕福に育ち、大学卒業後はパリに1年留学して19世紀フランス社交界の研究に手を染めた。その研究を断続的に進めながらも、それを職業とするまでにはいかず、積極的に結婚しようともしなかった。

 

 

そのアナが、突然失踪した。届け出たのは行きつけの医師ハリディ。診療予約をしたアナが、一向に受診に来ないのを不審に思ったのだ。彼はアナの母親のかかりつけ医として、アナとも長年にわたるつきあいがあった。というよりもアナの母親に、アナとの結婚を望まれるほど、好意を持たれていた。彼はそれを知りながら、べつの派手好きな女性と結婚した。アナは彼から結婚の予定を告げられたとき、死期がせまっている母親には知らせずに、彼と娘との結婚の望みを抱いたまま死なせてくれと、彼に頼んだほどだ。

 

 

アナ失踪の届け出をきっかけに、アナがかかわりを持った女性たちが登場する。彼女たちとアナがどんなつきあい方をしていたかが語られ、アナが素早く相手の意図を汲み、先回りをするように落ち度のない気づかいをし、手助けをする女性であることがこまかに描かれる。

 

 

こういう女性は、じつは世の中にたくさんいる。日本ではいまだにこの種の女性が圧倒的多数のような気がする。女性はとかく周囲に気づかい周囲に役立つようにと育てられ、それが習い性となって一生を過ごす。だから、それがあたかも自然な姿なのだと周囲のみならず本人さえも思ってしまう。

 

 

しかし、この主人公のアナは、その自分の「嘘」に気づくのだ。そしてそうでない自分の人生を取り戻そうと、50歳を過ぎた身で一人決然と生き始めるのだ。その姿を、日常のこまごました出来事や所作や会話を通して描き、ひとりで新しい生き方を始めるアナを日常のなにか一つを変えただけ、というような軽やかさで書いているところが、この作品の特筆すべき美点だろう。

 

 

つづいて、アニータ・ブルックナーの代表作とされるブッカ―賞受賞作『秋のホテル』も読んでみた。『嘘』のほうが、数段すぐれた作品のように思えた。

友の死

数日前、友人のkさんが1年余り前に亡くなっていたことを知った。享年65歳。勤務先で最後の1年の仕事を始めようとしていた矢先の4月に病が見つかり、3か月ほどの闘病ののちに亡くなったようだ。

 

知らせてくれたのはkさんと共通の友人のLさん。いま81歳か82歳で、彼女にとっては異国の地である日本で、留学をきっかけに住み着いて以来40年。数年前から脚がだいぶ不自由なはずだから、老いの身の一人暮らしということになる。

 

その日、めったに電話など来ない私の携帯電話に、珍しく3件の着信記録があった。1件は取りまとめを頼んでおいた会合の日取りが決定したという通知だったから、急いで了解の旨の返信をした。もう1件は、聞き取りにくい伝言メッセージで、かろうじて聞き取れたのがLさんの名前だった。しかも発信番号は、発信者不明のため私がずっと無視し続けてきた東京の電話番号だった。Lさんは、私に電話をし続け、10数回めにはじめて伝言メッセージを吹き込んでくれたのだ。

 

それでLさんに2年ぶりぐらいで電話したその電話でLさんから知らされたのが、kさんの死だった。Lさんは私がkさんと何の連絡も取っていなかったことにあきれたようすだった。kさんとは実は、2年ほど前まで職場を同じくしていた。だが私はある日突然そこを辞した。しかも私には、だがなにゆえか分からないが、あるとき知り合いときれいに関係を断ってしまう癖がある。学校を卒業したり、職場を離れたり、あるいは数年つきあった趣味のグループをやめたりすると、以後は一切の連絡を絶ってしまう。だからあの職場からも、ある日きれいに姿を消した。思い出してみれば、昼に弁当を食べながらそれなりに楽しくおしゃべりした友人などもいたのだが。2年もたたぬというのに、名前さえさだかには思い出せない。

 

そして、死についても私にはヘンな癖がある。死の受け止め方は、人それぞれ違うだろう。だが私の場合は、人が死んで悲しんだことがない。ああ、死んだのか、と思うだけだ。いちばん身近な死は、高校時代に親しかった同級生、それに母や父だが、そのひとたちのことさえやはり悲しいとは言えない、うっすらとした寂しさを感じるだけなのだ。

 

kさんは、いまどきの人らしくブログを書き残していた。どんなふうに亡くなったのか知りたくて、ブログを探し出して目を通してみた。死の3年ほど前、東北大震災に続く福島原発事故をきっかけに書き始めたらしいブログは、安保法制反対の声明で終わっていた。死の20日ほど前だ。へえ、kさんてこういう人だったのか、政治オンチかと思っていたが、と苦笑した。

 

そのなかのほんの数行が、私の心から離れない。kさんは母親と二人暮らしだったらしい。母親が数年前から認知症になって、漢字が分からなくなり、ひらがなが分からなくなり、娘たちのことも分からなくなった。そして口癖になった言葉が「私はどうしちゃったのだろう、バカになってしまった」だった。kさんは「お母さん、そんなことないよ。ぜんぶ分かっているじゃない」と言い続けたという。

 

kさんの病が発覚して以来、母親は夜床に就くと両手を組んで祈りの姿勢を取るようになった。kさんは、老いて先の分からぬ深い闇の淵に立つ母親のために、自分は祈ったことがあっただろうか、と自問している。そう、これが私の知るkさんだ。

 

 

狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ

 また分厚い本に手を出した。『狂うひと』(梯久美子著 666頁)。途中でやめときゃよかったとは思わなかったが、しかし、、、。

 著者ははじめは島尾ミホの半生を本にまとめようとしたが、途中で取材を断られてしまったという。しかしミホの死後に、残された膨大なノートや手紙、メモ、草稿などをすべて閲覧する機会に恵まれた。それらを駆使していわば「死の棘」創作の裏側を暴いたとでもいうのが、本書の内容だ。資料の読み込みは緻密を極め「死の棘」で夫婦が繰り広げる狂態が、実は阿吽の呼吸の協作だったかもしれないなどの、ひりひりする実態まで浮かび上がる。それはいかにもスリリングだ。

 島尾敏雄は知られているように特攻隊長の生き残りで、その体験や、自分が見た夢などの非現実的な話を書く地味な作家だった。それがある日、日記に記した情事の記述を読んだ妻が狂躁状態におちいってしまい、その妻をなだめつつ右往左往する「病妻もの」を書くようになる。これは短編の形で7年にわたって書き継がれ、短編集「死の棘」に結実した。

 この陰陰滅滅たる夫婦のいさかいの記録。そこには2人の子供もいたから、今でいう育児放棄の悲惨な描写。その暗い話が大衆的な知名度を得たのは、それにふさわしい包装がされたからだ。この夫婦が、たかが夫の浮気ぐらいでこれほど凄絶な争いをするのは、彼らの愛情がとくべつ崇高であるあかしだ、というような。また二人が出会ったのが戦時下の加計呂麻島であったことから、ミホは南島の神話的世界で育った純粋無垢な霊能力のある少女、敏雄は死を運命づけられた極限状態でミホに愛をささげた、というふうな。そんな書き方をしたのは男の評論家たち奥野健男中村光夫吉本隆明などだ。「死の棘」は芸術選奨を受賞し、のちに映画化されて世間に広まっていく。

 けれども本書「狂うひと」のずっと前から、女性の作家や評論家は「死の棘」の、そしてそれへの讃辞の欺瞞を見抜いていた。たとえば上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子著「男流文学論」などは、ミホと敏雄の恋愛はなにもとくべつなものではない、と指摘している。むしろミホが戦時中の隊長様へのあこがれを捨てられず、ロマンチックラブ幻想の呪縛から解かれていないことこそが問題なのだと。つまり「狂うひと」が描出したポイントは、大筋としてはすでに前の3人を含む女性の書き手たちが述べていたことでもある。

 ミホは加計呂麻島で裕福な叔父夫婦の養女となり、跡取りとしてわがままいっぱいに育ったという。結婚後はたぶん、幼時から培われた自尊心と、夫に求められ自分も内心あこがれてもいた従順な妻とのあいだで引き裂かれる日々を送ったのだろう。それが爆発した「死の棘」の時期を経て、葛藤の末彼女は作家となり「海辺の生と死」などの佳品を残した。それでいながら彼女は島尾敏雄の死後、また従順な妻、愛に殉ずる妻へともどってしまったのだろうか。チャンスをとらえては自分たちが崇高な愛を貫いたことを強調し、それを演出するかのように終生喪服で通したという。なんとも、痛ましいと言おうか、滑稽と言おうか。


 

『忘れられた詩人の伝記』を読んで  家族ってなんだろう

 

 読み終えた分厚い本がある。『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』(宮田毬栄著 2015年 480頁2段組み)だ。数日間、食事と睡眠以外の時間をほとんど費やして読みふけった。なにがそんなに面白かったのだろう。

 高校時代に詩を読みあさったことがあるが、大木惇夫はそのころ好ましく思った詩人たちの一人だった。それほど印象は強くないが、彼の名前を目にして若かりしころの気分が心の底に蘇りかけたのが、この本を手に取った一番の動機だ。

 著者は、詩人の娘であるうえに中央公論社の文芸担当編集者であったから、父親の人生をたどりながら作品も漏れなく渉猟したのであろう。たくさんの詩が引用されていて、いままた詩の世界に浸ってみたいという私の望みは満たされた。そのうえ父の作品を読み込んだ娘の簡潔で的確な感想が添えてあり、それはなるほどと思わせるものが多く、自分の思いと対照してみるのはおもしろかった。詩人の父を持った娘は、こんなふうに長い時間その作品を掌に載せて、矯めつ眇めつ眺められるのだなと羨ましく思った。

 父の人生をたどるということは、家族と父との関わりをも語ることになるから、著者自身の来し方にも多くの紙幅が割かれている。著者は敗戦時に8歳だというから、戦争や疎開の記憶をはっきりと残していて、戦後の貧しさの真っただ中で学び働き始めた。そして父親のせいで生活の重荷もかなり背負わされるのだが、その生き方は困難な中を突き進むような趣があり、それも私が勢い込んでこの本を読み進めた理由の一つになっている。

 父・大木惇夫の作品についても、戦争中の軍讃美になびいた言動についても、歯に衣着せず切り込む著者が、唯一切っ先を丸くしたのが、父と母の関係についてではないか。そういう感想を、読了後のいま、私は胸に抱いている。そして、それこそが家族というものを雄弁に語っているようにも感じている。

 大木惇夫は、思えば不思議な人生をたどっている。16歳で出会った2歳年長の恋人が、親に言われるままに他の男に嫁ぎ、6年後に結核を病んだ身で戻ってくると、その2年後に彼女の離婚成立を待って結婚した。大木惇夫、24歳である。この病妻との結婚生活は、彼女の死で幕を閉じるが、そのとき大木惇夫は37歳だ。

 ところが大木惇夫は死が間近にせまりつつある妻がサナトリウムに入ったころ、10歳年下の著者らの母親となる女性と暮らし始める。このとき大木惇夫は33歳、35歳で長男が、36歳で次男(幼時に死去)が生まれている。37歳で病妻が死去し、39歳で長女が生まれ、40歳で彼らの母親と入籍した。41歳で著者である次女、46歳で三女が生まれている。ちなみに次女が生まれた翌年には日中戦争がはじまり、三女が生まれた年には太平洋戦争がはじまった。

 とはいえ日本が戦争に突入したこのころが、著者にとっては幸せな家庭生活で、目白の庭のある家で楽しい子ども時代を過ごしたという。ところが父親には親しい女性ができて家を空けることが多くなり、三女を妊娠中の母親が出がけの父親を面罵したり、怪しげな女性が鍵穴から家の中をうかがうのを兄がつかまえそうになったり、とのエピソードもはさまれている。この怪しい女性を子どもたちは「カギ」と呼んでいたそうだが、大木惇夫は戦中の疎開時も子どもを抱えて苦労していた妻とではなく「カギ」と過ごし、結局は長い年月を「カギ」と共に過ごしてその元で死んだ。82歳であった。

 あの美しい抒情詩の作者の実人生を生々しい筆致で知らされるというのも、私がさらに興味を募らせて読み進んだ理由であろう。その意味では有名人のスキャンダルに飛びつくミーハー族の心情とも通じるところがあるわけだ。にしても、大木惇夫のいわば女性遍歴や家族との軋轢の軌跡と、そのなかから生み出されていった詩や訳詩の仕事を丹念に重ね合わせて示されると、こんな思いがわく。詩人にとって、家族は、いやもっとはっきり言えば子どもは、本質的に邪魔だったのではないか。

 著者は父方の祖母の死にまつわって、祖母が情の薄い人であったことが、父にあのような人生を歩ませたのではないか、というようなことを書いている。つまり一人の女性と安定した関係を築いて家庭に落ち着くことができなかったのは、あのような母親に育てられたせいではないか、というわけだ。父にまつわるこれだけの資料を集めて読み込みながら、そんなふうにオチをつけるのはもったいない、というのが私の率直な感想だ。著者の「カギ」に対する憎しみは理解できるにしても、「カギ」のことがもう少し客観的に書かれ、大木惇夫がなぜそちらで暮らすことを選んだかを推測できる何かがつかめたら、大木惇夫のとくに晩年の仕事の意味がより鮮明に浮かび上がったのではないか。それは新たな家族観をも示唆したかもしれない。大木敦夫にとっては、詩を生み出せる場こそが大事だったのだろうから。

 人は、残念ながら一通りの人生しか生きることができない。しかしぐちゃぐちゃの惨めな現実生活の中から、美しい抒情詩を生み出していた詩人大木敦夫は、人生はどこまでもこの面倒な現実が続いていくと知りながら、気を惹かれる曲がり角をふと曲がってしまい、そうすると案外そこに執着してしまう人だったようだ。

 

サツマイモ収穫

昨日と一昨日、サツマイモを収穫した。今年で3回目だが、やっとサツマイモの生り方がわかった気がした。一回目は4年前だったか、福島原発事故の影響がいちいち心配だったころだ。根菜は地中の放射性物質を吸収しやすいと聞いていたので、市役所の計測器で測ってもらった。検査のために最低でも1キログラム必要だったような気がする。それを砕いて持ってこいと言われて、加熱して柔らかくしてつぶして持って行った。せっかく収穫したイモを食べられずに検査して捨てるのかともったいない思いをした。福島で検査のためだけに稲を栽培したり魚を獲ったりしなければならない人は、ほんとに虚しい思いをしていることだろう。このときは検査結果は検査可能最低値に達していないということで、残りは食べた。だがこの検査のせいで、意気込んで自分の収穫物にかぶりつく気がそがれて、味は覚えていない。

 

その次に作ったのは2年前だったか。巨大なイモができてしまい、あとは小さいのばかりで、これも味わうというところまではいかなかった。畑仕事の先輩の有坂さんが、ツルはあまり伸ばさずに切ること、とか、ツルの途中から根が出ないようにすること、とかいろいろ教えてくれたのだが、あの時はそれが大事なことだということが理解できなかった。

 

そして今年。今年はサツマイモの苗を8本手に入れた。町中にある種苗店で買ったせいか、植え方を丁寧に教えてくれた。庭の手近なところにとりあえず植えて毎日水をやって根を出してから畑に植えなさいとのことだった。その通りにして、畑も2か所に分けて植えてみた。

 

今年はなぜか、葉があまり勢い良く伸びなかった。それがなぜなのかは分からない。今年は天候も随分不順だったし、苗のもともとの質ということもあるだろうし。それでも秋になって収穫時をいまかいまかと待った。きっかけとなったのは、駅近くの公園でほほえましい光景を見たことだ。私と同年配の女性が二人、久しぶりに会った風なあいさつを交わしながら公園の丸いベンチに並んで腰かけた。二人とも手作り風の大きめの布の袋を下げている。それを膝にのせて何やらプレゼントをしあっている風だ。漬物のおすそ分け、庭の果実や草花などいろいろのようだ。そのうち一人がサツマイモをひとつ、またひとつと取り出してわたしはじめた。互いに袋をのぞき込みながら、ああこれでウチはたくさん、あとはxxさんにあげたら?などと言い合っている。

 

それで一昨日ためしに1本のサツマイモを掘ってみた。7つぐらい獲れた。うれしい。だがサツマイモは確か、掘ってから10日ぐらいたたないと味が良くならないそうだ。それで収穫した分を干しつつ、残りを収穫しようと昨日また畑へ出かけた。1本、また1本、もう少し土の中に置いておくべきかどうか、などと考えつつ、とうとう8本全部掘り返した。しかし、だ。あんなに面積を採っていた割には、小さい段ボール箱にいっぱいにもならないほどの収穫量だ。どうしたことだろう。しかし今回こそはサツマイモの生り方がわかった。ツルはあまり伸ばさずに適当に切れ、ツルの途中から根が出ないように時々ツルを引っ張ってもちあげろ、の意味もやっとよく分かった。

 

よし、来年はもっとうまく作ってみせるぞ。

 

 

 

野菜情報

午前中、原稿を書こうとしているとチャイムが鳴った。机上のアイホンのボタンを押すと「××です」と、名前が切れた応答が聞こえた。だが声の様子から親しい友達だと推測できたので、階段を駆け下りて玄関のドアを開けた。杉田さんだった。

 

大分の親戚から送ってきたので、と見事なカボスを7個もいただく。それと畑でとれたので、とこれも見事なレタスをひとつ。この町で暮らしてうれしいのは、こういうもののやり取りだ。頂き物が多ければすぐにおすそ分けし、畑に差し上げられるものがあれば手土産がわりに持っていく。それにしても、なぜわざわざ下さるのだろうと思うくらい、皆さん気前がいい。

 

すぐ近くの私の畑に案内しながら、野菜の話をする。キャベツを上げようかと言って、ひとつだけぽつりとなっているのを見せた。すると杉田さんは、それはまだ小さい、取らない方がいい、という。フェネルの花を見せて、種を取って来年また蒔くのだというと、葉っぱを味わっていいかと言う。ちぎって渡すと、その場で噛んでみて、私にも種をちょうだい、とのこと。

 

クコが長く枝を伸ばしているのも見せる。その先の方を切って渡す。杉田さんの近くにもクコと思われるものがあるが、実をつけたことがないのだという。持って帰って比べてみて、植えておくと言う。畑を歩きまわりながら、杉田さんが今年はニンニクを植えるつもりだという。私はいままで2回ニンニクを栽培したことがある。その経験談など話す。杉田さんの方が畑の腕はずっといいはずなのに、私の経験談を熱心に聞いてくれた。

 

その杉田さんの話がきっかけになって、数日後にニンニクを植える場所を耕した。ひまわりや紫蘇やビーツを育てたところで、冬の間も比較的日当たりがいい場所だ。一日目は耕して、翌日堆肥を埋めた。堆肥は庭のコンポストに生ごみや刈り取った雑草を入れて作ったものだ。一回目にニンニクを作ったときは、比較的うまくでき、その時は確か堆肥をつかったのだ。

 

庭から畑までは徒歩1分足らずの距離だが、堆肥は重い。バケツにいっぱい入れるて下げると、そちら側に体が弓なりにしなうほど重い。その重い堆肥を3回運んだ。畑仕事はやはり肉体労働だ。汗でぐっしょり濡れたシャツを脱ぎ捨てながら、時折の肉体労働が身体にとって良い作用をしてくれることだろうと考える。生きている限りは丈夫でよく動く体でいたいものだ。