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キビを収穫

キビの穂を厚めのビニール袋に入れて、ゴムのハンマーで叩く。

叩きながら、用途も分からないままだったが、このゴムのハンマーを買っておいてよかったと、知らず知らず口元が緩む。あれはこの人口4万足らずの小さい町に引っ越した年のことではなかったか。秋晴れのある日、駅前の目抜き通りで骨董市と地元野菜や果物の市が開かれた。そこに農家や大工など職人たちが使った古道具が並べられていたのだ。手に取ってみると、どれもこれも使いこなされたもので手になじむ。金槌や釘抜きと一緒に、使用目的もないままにこのゴムのハンマーを買ったのだ。

 

ここ2年ほどは、小さい畑で作り始めたライムギやキビやアワの脱穀に、このゴムのハンマーはとても重宝している。これがなかったら、昔風にむしろでも広げて長い竹の棒か何かで、種が飛び散るのに気を使いながら叩きでもしただろうか。

 

こんな単純な作業でも繰り返すうちに要領がよくなる。家には私だけしかいないのをよいことに、ずっと昔によく聞いたオーティス・レディングのレコードをかけた。3,40年ぶりだというのに曲の順番をおぼえている。好きな曲は聞き逃さないよう、作業手順を考える。しかも、叩くのは一番手近な玄関の三和土でやっても不都合はないことにまで気づいた。

 

I've got dreams というスローテンポの曲に浸りつつ、まるで違うテンポでゴムハンマーをふるう。そしたら、ふと母のことを思い出した。母は裕福な家で育てられた。兄と弟にはさまれた女の子で、父親に溺愛されたという。活発で女学校時代は水泳選手として県の代表になり全国大会にまで出場した。一方で勉強好きでもあり、女学校時代からエスペラント語に取り組んで、重要な通訳などもやってのけた。

 

あの母が、贅沢な趣味の反面で妙に貧乏くさいところがあったのは、いったいなぜなのだろう。そして私は、やはり裕福な家で育ったのでとんでもなくおおざっぱで気前のよいところがある反面、母などとは比較にならないほどの貧乏くささを身に着けている。これは若いころに一緒に暮らした夫がひどく貧乏だったせいで身についた癖かもしれない。しかし、この貧乏くささを私は自分でもて余している。

 

いま叩いているこのキビを作ったのはいったい、私のなかの何がさせたことなのだろう。

いまとなれば買っておいてよかった。年間通しても使うのはほんの数回だが、これがなかったらどうしただろう、と思う。こうしてキビやライムギの脱穀に使い、あとは家具や建具のちょっとした不具合をたたいて直すぐらいだが。

 

 

キビを収穫

今年も10月に突入。

けれど9月があまりにも雨が多くて、まるでなかったような気がする。私は毎朝ジョギングか速足のウォーキングをして、大体の距離を記録している。何もしなかった朝は、しなかった理由を「寝坊」とか「雨」とか書いているのだが、なんと11日も雨が続いた日があった。

 

雨天が続くというのは天気予報で聞いていたから、キビは早めに穂だけを刈り取った。種を蒔くときに袋に書かれた説明を読んだら、熟すと自然に脱粒するからとの注意書きがあったからだ。

 

刈った穂は居間の南向きの窓際に空き箱に入れて干していた。雨続きだから干せたかどうか分からぬままもうだいぶ日数がたった。連れ合いがカーテンを閉めるたびに、箱にひっかけて舌打ちしたり、足で箱の位置を直したりしている。彼は記憶力が衰え始めているうえ、しゃがむのが苦痛になっているらしい。だから体をかがめるのを嫌って、足で用を足そうとすることが多い。私には不愉快なことだ。

 

そんな不愉快さをなくすには、キビをちゃんと食べられる状態にして空き缶なりなんなりに保管してしまうのが一番だ。そこで今日は午前中から、その作業に取り掛かった。

 

これは昨年ライムギを収穫したときに私が編み出した方法だ。米の袋が厚いビニールなのに目をつけた。そこに穂を入れて口を緩やかに閉じ、袋の外からゴムのハンマーでたたくのだ。ライムギがうまくいったから、キビはそれよりも簡単にできるだろうと見込んで、やってみた。うまい具合にキビの粒を集めることができた。

 

さて次の段階は、キビに混じっている殻やゴミを取り除くことだ。まず始めは平らな盆にでもキビを薄く広げて、団扇で扇ぐなり息を吹きかけるなりしてみようと思う。次の段階もう少し厳密に細かいゴミまで除去したいから、扇風機を回してその前でパラパラと黍を落とし、ゴミだけを吹き飛ばしてみようか。

 

さてうまくいくかどうか、結果はまた報告します。

神話をつくる人々

台湾では清朝の統治時代に、強奪にも等しい土地取得が横行した。清朝政府が発給した墾照という一片の証明書を盾にして、権力者が好き勝手に土地を私有化した。私有地を膨れ上がらせた権力者たちはそれを守るために私兵を雇い、弱肉強食の争いを繰り広げた。

 

これに勝利した者たちが、豪族となり、由緒ある旧家などと呼ばれるようになっているわけだが。彼らはこういう行為を隠蔽したいという気持ちが無意識のうちに働くのだろう、子々孫々にわたって祖先の遺徳をしのばせるための神話を、親族内で語り伝えている例がよくみられる。

 

ある旧家に伝わる話。昔々、日が暮れてからみすぼらしい旅人が一夜の宿を請うて戸口に立った。どこの家でも断られて困り果て疲れ果てていた。その家の祖先は旅人を招じ入れて温かくもてなし一夜の宿を与えた。翌朝、旅人の部屋を見てみると彼の姿はなく、かわりに葛籠が置き去りにされていた。開けてみると金塊がいっぱいに詰まっている。祖先はそれを天与の贈り物としていただき、土地の権利を次々と買い取って、以来豪族として代々繁栄してきたという。

 

やはりどの国でも、どの家でも、こうした類の話は眉唾なのですねえ。

 

 

父の遺産 フィリップ・ロス

長篇小説のなかに一行でも一言でも、そのリアルさに胸を突かれるような箇所があれば、その作品は忘れられないものになってしまう。その心に迫る場面や言葉は、読み手の状況によって変わる。数十年前から好きでよく読んでいたフィリップ・ロスだが、近頃また読んでみて、以前は気にも留めなかった箇所に妙に心を動かされている。

 

「父の遺産」は1991年に発表されたというから、ロスの58歳の時の作品ということになる。作品のなかの父は86歳。8年前に妻を亡くした後も元気で、お洒落で女性にももてていた。その父が体調を崩してついに亡くなるまでの数カ月を描きつつ、父との触れ合いのさまざまを回想している。日本語翻訳版タイトルの「遺産」は金銭的なものを想像させるが、原題"Patrimony"だと有形無形に伝承されるニュアンスがあるような気がする。

 

父はユダヤ系移民二世で、貧困の中で育ち中学を出てすぐに働き始めた。小商売などやっているうちに大手生命保険会社の職に就くことができ、ユダヤ人差別に抗いながら地道に働いて出世もした。精力的な働きぶりと記憶力の良さは、年老いてもなおしばしばその片鱗を見せる。だからこそ、父とは違って大学・大学院まで進み、いまは作家として活躍し大学の教職にも就いている息子に、父は正面切って正論を述べ立てる。

 

父は生命保険会社で精勤したせいで、その退職金や年金で充分に暮らしていけるはずだった。もともと贅沢など縁がない堅実な生活者だから、それ以上の倹約など必要ないはずであった。ところが老いが進むにつれて父は「自分のこととなるとこっちがうんざりするくらいケチになっていた」と、息子たるフィリップ・ロスは書く。その描写はつぎのように続く

 

なかでも気が滅入るのは、崇拝する『ニューヨーク・タイムズ』を買うのをやめてしまったことだ。代わりに父は、同じ建物にいる父からすれば大金を支払っている購読者から読み終えた新聞を譲ってもらうのを、一日中待っているようになった。それに妻が生きていたころから週に一回来てもらっていた家政婦を、月一回だけにしてしまった。何もすることはないから掃除ぐらい自分ですると父は言うが、家の中はこまかいところに次第に汚れが目立つようになる。そのうえ父は地下にある洗濯機・乾燥機を使う小銭まで惜しむようになった。それで自分で下着や靴下を洗い、バスルームに干している。「訪ねていくたびに、灰色っぽい、いびつに歪んだ父のパンツや靴下が、ワイヤーのハンガーにまたがって、シャワーの先やタオルラックにぶら下がっている」とロスは書く。

 

「いびつに歪んだ父のパンツや靴下」とはなんと辛辣なことか。これこそが老いかもしれない。アメリカとは生活習慣が違うからこの通りではないが、似たようなことを私もしている。タオルを擦り切れるまで使う。新しいのがあるのに、それは使おうとしない。近くの畑で芋ほりをしているのを見かけると、収穫が終わったあと出かけていき、隅に打ち捨てられたキズイモを拾ってくる。事実それは煮物やサラダやと、2、3回の料理の材料になるのだ。

 

思えば忙しく仕事をしていたころは、こういうたぐいのことはしなかった。幸いにして私もいまのところ経済的な困窮には陥っていない。それでもどんどん、フィリップ・ロスがケチだとあげつらうたぐいの行為は増えていく。それは思うに、この先収入が増えるあてはなく、有り金でどのくらいの期間の生活をまかなえばよいのかが分からないからだ。この漠とした寂しさを、父のようすをつづりながら、フィリップ・ロスは、理解ていただろうか。そしていま、この父の年齢に近づいてロスは何を思っているだろう。

 

けれど老いた私が、自分の通って来た道筋だからと言って、年下の人のことを分かっていると思うのは傲慢だ。世代差・年齢差は断絶を生まずにはいないのだ、とずっと以前の出来事を思い出した。

 

あの頃私は40代だったはずだ。娘が20歳になったとき、ああ大人になったのだと安堵し、そのとたんにスイッチが切り替わったように娘を大人扱いしだしたらしい。らしいというのも無責任な話だが、無自覚にそうなってしまったのだ。するとそれまで見逃していたさまざまが急に気になりだした。例えば、娘が何か知らないことを私に尋ねる。それを説明するついでに関連の本や新聞記事なども教えてやる。ところが娘は、一向にそれを読もうとはしない。なんで読まないんだ、そんなことを知らずに生きていくことはできないのに、と私のいらいらはつのり、しょっちゅう言い争っていた。

 

ところが、そのころ思いがけなく大学から講師の口がかかり、20歳前後の若者たちを教えることになった。大教室にぎっしり詰めかけた200人ほどの学生を目の前にしたとき、ひらめくように得心したことがあった。そうか、私の娘やこの学生たちの前には、長い長い時間が横たわっているのだ。残り時間が少なくなっている私とは、それに比べれば、私の過ごせる残り時間は少なくなっているから、時間の持つ意味が彼らとはまるで違うのだ。

 

あのときは世代差・年齢差の断絶をなんとかまたいで、娘とは決裂せずにすんだ。けれどもどうやら「老い」というのは、年齢を重ねてきた先に起きていることというだけでは語れない何かがある。どの年齢でも目の前には未知の荒野が広がっていたわけだが、とりわけいまはその荒野には深い谷があるか底なし沼があるか、はたまた切り立つ岩肌に阻まれるか、なにがあるかは分からぬように思われる。

天皇と天皇制

2016年8月8日午後3時、「天皇のお言葉」がビデオメッセージという形でテレビ放映されることになっていた。71年前の8月15日に、同じように天皇がラジオを通じて何かを述べるからとのことで集められたそうだ。今回の「お言葉」なるものも、誰がどのような筋道で放映することに決めたのかなどが曖昧なまま、テレビを見るよう促そうとしている。それが不愉快だったから、「お言葉」に合わせてテレビのスイッチを入れること自体に抵抗があった。全国民を有無を言わせず集めて物申すなどという、強大な権威を認めたくない。ほぼすべてのメディアを使い、それにより醸し出される雰囲気を通じて、一斉に同じ行動をとらせようとする力が嫌いだ。

 

けれどやはりスイッチを入れた。その内容をあとから聞く、というのでなく、この蒸し暑い日の日盛りに、日常を断ち切られる形で聞いてみたいと思ったのだ。私は信州住まいだから冷房など使わずとも充分に涼しい居間のソファにねころび、近頃熱中しているフィリップ・ロスを読んでいた。だがちょうど手洗いに立って時計を見ると3時だったので、スイッチを入れた。つれあいのヒデさんは、夕方飲むビールを切らしているのに気づき、日盛りにもめげずにスーパーに行こうとしていたのだが、履きかけていた靴を脱いで居間に戻り、テレビの前の椅子に座った。

 

お言葉は全部で11分だった。天皇は82歳だそうだ。数年前に2度の外科手術をして、身体の衰えを感じるようになった。そのために象徴としての務めを充分に果たせなくなるのではと懸念している。象徴たる天皇の死によって社会が停滞するのを防ぐためにも、安定的に国家の象徴・国民統合の象徴としての役割を果たしていくためにも、自分の役割を後に続くものに引き継ぎたい。以上が話の主たる内容だったと思う。このところニュースで取り上げられているように、自分が生きているうちに天皇の位を皇太子に譲りたいというのが天皇の意向のようだ。

 

象徴としての務め、という言葉が数回にわたって出てきた。そのたびに私は戸惑いを感じた。そう言われてみて、今まで考えたことがないことに気づいたからだ。私も国民の一人である日本という国の象徴、ということは私も含めたひとかたまりの集団の象徴ということか。私も含めた大勢の人々が、あの天皇に象徴されているなんて、何だか気持ち悪い。

 

天皇にとっては、全国津々浦々をめぐり、人々の傍らに寄り添うこと、災害地をめぐって人々を励ますこと、太平洋戦争の戦跡で慰霊をすることなどが重要な、象徴としての務めであったらしい。そういう場所での人々とのふれあいのようすを、テレビなどはこれでもかというほど映し出す。だが私は子供の時に、皇族の避暑地である町を偶然ただ歩いていただけなのに手荒く人払いされて転んだ経験がある。皇族の誰かがそこを通る予定でもあったらしい。だから天皇皇后がたくさんのお付きを従えて人々の中へ入って行く、というような映像を見るのは不愉快だ。転んだ時の膝と肘の痛みがよみがえるような気がする。

 

自分の意志とは無関係に天皇になってしまった人が、象徴天皇という自分の務めは何かと真剣に考えて、それを地道にやってきたというなら、それはそれで評価すべきなのかもしれない。だが私は、天皇制はやはり廃止したい。

 

被災地で苦境にいる人たちが、天皇の来訪を有り難がる、というあの心情が私は嫌いだ。無条件で有り難がる対象がいるという心情は、無条件で蔑む対象をも容易に作り出すと思うからだ。皇室に伝わる男尊女卑の伝統も、その形式及び雰囲気をこれ以上ふりまかないでほしい。

 

お言葉の放送があった夜に、NHKスペシャル天皇がいかに象徴天皇としての役割を模索し、その務めに熱心に取り組んできたか、という内容の番組があった。皇居を散歩する天皇皇后は東京のど真ん中にいながらまるで深山を歩いているかのようだ。皇居内を天皇が車を運転して、同じく皇居内にあるテニスコートにでかける、というのにも驚愕した。歩いては行かれない距離にあるというのか。東京のど真ん中のあの広い場所を、たったひと家族が占有しているわけだ。

 

生まれながらに特権を付与される人はなくした方がいい。そういう制度は必ず生まれながらに蔑まれる人を生み出すと思うからだ。皇族という、若い時から無為徒食で過ごす人もなくなってほしい。天皇は個人的には日本のほぼ全国をめぐり、それぞれの地に一生懸命生きる人に触れたと、ほんとうに思っているのかもしれない。けれども同じ旅でも、人々に触れる旅などというのをそう簡単にできるものではないということは、私など旅好きは百も承知なのだ。あんなに人々とかけ離れた生活をし、人々とかけ離れた贅沢な旅をして、人々と触れ合ったなどと言ってほしくない気がする。

 

天皇個人から離れて、天皇制は廃止に向かってほしい。

ある終焉 看取ることの辛さ

この暑さのなか、長野市まで映画を見に行った。ゆっくり走るローカル列車で1時間ほどだが、長野市はここより気温が4、5度は高い。なにもこんなときに、と思わなくもないが、映画ばかりは見たい時に見ないと、、、とやはり出かけた。

 

「ある終焉」(ミシェル・フランコ監督)だ。終末期を迎えた重病患者ばかりの介護をしている男の看護師の話である。近頃では介護の話が身辺でも頻繁に出る。介護する側とされる側との関係とはいかなるものか。などときれいごとではなく、自分が誰かに身辺の世話をしてもらわなければならなくなったとき、自分は絶対的に弱者になってしまうのかという切実な疑問が私のなかにはある。

 

さて映画のなかの男性看護師デヴィッドは、患者が女性であれ男性であれ、裸にして椅子に掛けさせてシャワーで洗い、ベッドに運んで寝間着を着せ、快適なように身辺を整える。患者の方も意識はもうろうとしているとはいえ、相手が看護師だからこそ、彼の前で素裸になり抱きかかえられるままになっているのだろう。

 

デヴィッドは淡々とプロフェッショナルに日々の仕事をこなし、合間にはジムに行ったりジョギングをする日々だ。彼には離婚した妻と、その時に分かれた娘がいて、さらに息子の死をめぐって安楽死させたことを疑われた過去があることが、次第に分かっていく。それにしてもデヴィッドの終末期患者である顧客への対応は、沈着、丁寧、まるで機械のようだ。

 

その仕事ぶりはいったいどこから来るのか、が私の最大の疑問だった。彼は徹底した仕事ぶりの機械のような人間なのか。事実成り行き上介護することになった女性患者から安楽死幇助を依頼されると、デヴィッドは冷静な面持ちのまま着実に彼女を安楽死させたりもする。デヴィッドには、感情はないのか。いや男性患者の家族から患者に対するセクハラを訴えられ契約を解除されると、デヴィッドは禁じられていたにもかかわらず患者宅を再訪して別れの挨拶をしたいと懇願したりする。

 

日々終末期の患者に向き合い、その死とともに患者との関係は終わる。するとまた別の終末期患者の世話をする仕事が待っている。なんという生活だろう。だがもう一方で私がいぶかしく思ったのは、患者の家族の態度だ。物語の舞台は明示されないもののアメリカの中小規模の町と思われる。こぎれいな住居で死にゆく家族を抱えつつもふだんのこぎれいな生活を手放さない人々。死にゆく人の身の回りの世話をデヴィッドに任せた家族は、汚いものには一切触れずにすむ。娘たちが母の下の世話もなにもデヴィッドに任せ、自分たちは明るいリビングで楽し気にお茶を飲んでいたりする。

 

デヴィッドのなかにたまっていくものは、解決不能な人の死をめぐる思いの数々ではないか。家族は死んでいく親や近しい人に寄り添って、その世話に追われて苦しんだり悲しんだりするのをやめた。世話と一緒に苦しみまでもプロに任せてしまった。この映画のなかの家族はそういうふうに見えた。

 

他人の死に寄り添って、それこそ解決不能な複雑な思いを心身にいっぱいため込んでしまったデヴィッド。それをいくらかでも解消するためなのか、あるいは世話に必要な強靭な体力を維持せんがためか、ジョギングを黙々とこなすデヴィッド。その彼にもある日、唐突な終焉が訪れた。

おすそ分け

つれあいのヒデさんが水曜日恒例の筋トレに出かけたと思ったら、すぐに戻ってきた。また忘れものだろうか。でも取りに戻ったなら上等と言うべきだ。たいていは忘れたままどこかに出かけて、財布がなかったカードがなかったなどと、用事もたさずに戻ってくるのがオチだからだ。

 

ヒデさんはなんと、スイカを抱えて戻ってくると、「藤谷さんのスイカ。今持ってきてくれたんだ。けさとれたんだって」と言って玄関に置き、そのままそそくさと筋トレに行ってしまった。

 

藤谷さんは、ヒデさんが時折電話で呼び出しては喫茶店でおしゃべりしたりする数少ない友達だ。庭先に日当たりのよい割合広い畑を持っていて、さまざまな野菜を作っているとは聞いていた。そうか、スイカまで作るようになったのか、とありがたくいただいて冷蔵庫に入れた。

 

ヒデさんがでかけてしまい、私は藤谷さんと庭を眺めた。我が家の庭はたぶん藤谷さんの庭とは対照的だ。藤谷さんの家は遠くからしか見たことがないが、南側は全く障害物がないから日当たり万点だろう。それに対して我が家はと言えばこのあたりの自然林そのままの大木が鬱蒼と茂って濃い陰をつくり、陽光を好む植物は育たない。それをいいことに私は庭の手入れなどほとんどせずに、草も木もごしゃごしゃと繁茂している。藤谷さんはたぶん、性格からして、また口ぶりからして、雑草を丹念に除去しているのではないだろうか。

 

そんな木影がつづく庭をひとわたり見せたあと、わが畑にも藤谷さんを案内する。周りの畑にくらべると私の畑は雑草だらけだが、なぜか私はきれいに草を除去することにあまり意義を見出せない。しかしここでも藤谷さんは何が面白いのか、黙って丹念にみわたし、私の畑からケールとビーツを少々、勧めるままに持ち帰った。

 

夕方ふたたび畑へ行く。畑もいったんやり始めてしまうと、やはりこの時期はほんのちょっとであれ手をかけないわけにはいかない。今日収穫できるのはトマトだけだが、収穫時のものを収穫せずに地面に落としてしまったりするのはやはり惜しい。

 

そう思いつつ、雑草の始末をし始めると、これはこれでなぜか面白くてやめられなくなる。と珍しくヒデさんが顔を出した。それでヒデさんに「赤いトマトだけよ」と念を押してトマトの収穫をしてもらった。ヒデさんは意外なほどたくさんのトマトを収穫すると、私を手伝おうなどという気はさらさらなくさっさと帰って行った。

 

だいぶたってから家に戻って夕飯の支度に台所に立つと、なんと真新しいトウモロコシが3本、ごろりと調理台にころがっている。ヒデさんが畑からの帰り道に、と言っても2分もかからない道のりだが、途中にある畑から帰ろうとしていた竹田さんに「ああちょうどよかった、これ持って行ってください」と、いきなりいただいたトウモロコシだそうだ。

 

畑仕事にはおすそ分けがつきものだ。野菜は人間の口にあわせて育ってくれるわけではない。天候と野菜の育ち具合の都合で、ある日どかんとたくさん採れてしまうのだ。作っている身としては、自分が食べきれないなら、せめて誰かに食べてもらおうと、おすそ分け先を探すことになる。

 

おすそ分け先は、まずは気心知れた相手がいい。できれば野菜の作り手の気持ちまでわかる人がいい。天候の具合や栽培具合で、出来はいくらか芳しくなくても、野菜の味以外のもろもろまで味わってくれる人であれば、なおのこといい。

 

藤谷さんのスイカは、藤谷さんが言っていたとおり、甘みは少なかった。けれど水けは充分あってのどを潤すにはとてもいい。竹田さんのトウモロコシは、我が家の窓から首を出して右手を覗き見れば、育つ過程が逐一見えていた。真面目そうな竹田さんが、朝夕丹念に畑仕事を続けてできたものだ。竹田さんの畑は、プロ並みに次から次へと見事な野菜を生み出している。