景品のベンチを、お返しします

 


 およそ10年前、信州に家を建てるときに、いちばん考えたのは冬の寒さ対策だった。当時住んでいた東京郊外で、時間をみつけてはモデルハウスを見学したり、建築会社の説明を聞いたりしたのも、いまとなっては遠い思い出だ。


 埼玉あたりでも床暖房などを導入した住宅は何種類か見られた。けれど信州の寒さは格別だ、ということを私は知っていた。あるときモデルハウスを見に行って、信州に家を建てる計画だということ、だから暖房に強い関心を持っていること、などを話した。するとその建築会社の人が、信州に暖房のことを非常に熱心に研究している建築会社がある、と教えてくれた。なんでも北欧などに住宅の暖房事情を見学に行く専門家のツアーがあって、そこでその会社の社長と知り合ったのだが、その好奇心の旺盛さと熱中ぶりは周囲をあきれさせるほどだった、という。


 そこで信州に行った折に、その会社に連絡を取ってみた。説明を聞いたり、モデルハウスを見学したりし、回を重ねるうちに、その会社が推奨するFB工法で建てた社員の家や社長の家も見せて頂くことができた。社長の家は豪華なものだったからあまり参考にはしないことにしたが、若い社員までが自社の工法で年相応のつつましい家を建てているとなれば、やはりこれは快適ないい家なのだろうと好感を持った。


 家は一生のうちに何回か建ててみないと、なかなか理想の家は作れない、とはよく言ったものだ。私たちの場合は、はじめて建てる家で、しかもたぶん終の棲家になるであろう家だから、考えに考えて建てたつもりなのだが、それでもやはり後悔はいくつかある。ただしこれは、別のやり方をしたら別の後悔が生まれていたかもしれないから、それほど深刻なものとは言えない。たとえば私の場合は、あと二部屋ほしかった、という後悔がある。けれども私は部屋数が40を超すような大きな家で育ったから、たぶんどんな家に住んでももっと大きい家への願望は残るのかもしれない。ちなみにつれあいは、ごく満足していてなにも後悔はないという。


 私たちの家は、無暖房住宅という方式を選んだ。断熱性保温性が高く、電気器具や人体が発する熱もすべて暖房として生きるほどだという。構造としては、密閉した地下室に普通の住宅の8畳とか10畳の部屋で使われるような、それほど大きくないエアコンを2台設置する。それで地下室の空気を暖める。外壁は厚みが50センチ余りあって、外側は古新聞を素材にしているという断熱材が分厚く詰め込まれていて、部屋に面した壁の表面近くには通気用の空間がある。そこを地下で暖められた空気が巡るという方式だ。だから暖気はジワリと壁全体から室内へと放射されることになり、家じゅうが同じ暖かさだ。暖かいというよりむしろ、寒くないと言った方が適切かと思えるような、自然な暖かさだ。


 この暖房方式の恩恵は大きい。冬でも木の床を素足で歩いても冷たくない。服を脱いでもひやりとする感じがない。もちろん時間帯によって室内に寒暖差が生じることもない。だからこれは私の悪癖なのだが、夜中にふと気になることがあって目覚めたりすると、躊躇なくベッドから出て書斎に足をはこぶ。執筆中の原稿を読みかえしたり、あるいは昼間読んだ資料の頁をまた開いたり、などということをするわけだが、真冬の真夜中でも寒さを感じるということはまったくないから、何時間でも仕事に集中できる。まあこの点だけを考えても、この家は理想に近いと言えるのかもしれない。


 しかし最近になって、こんなにいい家を建ててくれる会社が、どうしてこんなばかなことをするのかなあ、と思わざるを得ないことにぶつかっている。それは家を建てたときに、いわば景品としてもらった石のベンチのことだ。


 家を建てるというだけでもワクワクと楽しかった時期に、打ち合わせの場所は建築会社の支所の事務所を兼ねたモデルハウスだった。ひろびろとした贅沢な作りで、冬でももちろん暖かい。そこの玄関前に、建築会社のトレードマークの犬がついた石のベンチがあった。打ち合わせに訪れると、家を建てた人にはこのベンチを差し上げますとしばしば言われ、それを置いた庭のようすを思い描いていた。


 家が建って、住み始めてからしばらくしたころ、もうすっかり顔なじみの営業担当者が、我が家の裏木戸に車を横付けした。ベンチを運び込むには、表門より裏木戸からが便利だ、というようなことを彼はすっかり熟知しているのだ。私もどこに置いてもらおうかなどと考えながら、喜んで庭に出て彼を迎え入れた。ところが彼が運び込んだのは、あのモデルハウスの玄関前にあったのとはずいぶんと違う、ミニサイズのベンチだった。何でも半分のサイズにしたという。なぜかと訊いてみたら、これなら客のところへ運ぶのも一人でできるから、という。なんという勝手な理屈だろう。それを置かれた我が家では、腰かけることもできず、ベンチにくっついているトレードマークの犬の顔を見ながら、途方に暮れた。そして結局、それはまったく使い物にはならなかった。無理して座ったりしようものなら、後ろにひっくり返って頭でも打ちかねない。膝痛や腰痛だって引き起こしかねない。


 家を建ててからそろそろ丸10年といういまになって、思い切って建築会社に連絡をした。あのベンチは、思いもよらぬミニサイズだったせいで、結局使いもせずに庭に置いたままです。(実際のところ、今後足の運びがおぼつかなくなってつまずいたりでもしようものなら、使えないどころか健康を害す元凶にもなりかねない。)けれども御社のトレードマークがついているので、片づけようにも粗末に扱うことはできません。そこで、お引き取り願えないかと思うのですが、いかがでしょうか。


 営業担当はぶっきらぼうに、そういうことなら日にちの約束はできないが引き取りに行きましょう、と言った。これで一件落着ではある。しかしそれにしても、普通の半分のサイズのベンチを客にくれようなどとは、いったいあの会社は何を考えているのだろう。家の住み心地がいいだけによけい、心の隅に暗いシミができてしまったような感じがするのは残念なことだ。

『軍中楽園』 国家が抱える虚無をあぶりだした力作 

 

 


 台湾映画『軍中楽園』(2014年 ニウ・チェンザー監督)は、中華民国国軍が軍隊内で運営していた娼館を描いている。スキャンダラスになりがちなテーマに正面から取り組んで、ニウ・チェンザー監督が描こうとしたのは何だったのか。


 監督はこの作品について、印象深いことを語っている。「自分がこのテーマを選んだのではなく、このテーマが自分をひきこんだ。祖父母や父母の強い郷愁を感じながら育った私は、これを作らずにはいられなかった」と。なるほど、作品の中核となっているのは無理やり家族から引き離されて一兵卒として台湾にわたった老兵の、故郷や家族に対する深い思いだ。けれど私は、この作品は監督の意図をこえてもっと大きい問題を描き得ていると感じている。それが何かと言えば、国家というものが、おそらくどの国家であれ内包している、大きな虚無だ。


 映画の舞台は、中国大陸からわずか2キロの地点にある金門島。時代設定は1969年だ。1958年8月23日に金門島では中国と台湾のあいだの砲撃戦が勃発。10月頃には次第に終息したものの中国側が突如として隔日砲撃の方針を発表した。だから1969年といえば月水金には砲撃があり、火木土は休戦日というゲームのような戦闘に、島の人々が否応なく巻き込まれていた時期だ。


 映画の冒頭、兵役のために徴集された若者たちが揚陸艇艦に乗せられて、台湾本土から遥かに離れた金門島にやってくる。最前線と位置付けられている地に立って、彼らは気が逸るのを抑えきれないようでもある。そのなかのひとりシャオバオはいかにも朴訥な青年だが、いきなり士官長のラオジャンから手厳しい訓練を受ける。ラオジャンは強い訛りのある中国語を話していて、中国大陸の辺鄙な地から来た下級兵士であろうことが分かる。いまは軍隊内で若い兵隊を束ねる士官長で、かつて自分が味わったような過酷さを新兵に強いているということか。訓練中にシャオバオは泳げないことがばれてしまい、精鋭部隊からは外される。そして彼が配属されたのは、なんと831部隊だった。ここは別名「特約茶室」あるいは「軍中楽園」と呼ばれている娼館で、そこの管理がシャオバオの任務となった。


 シャオバオは娼婦や兵士がくりひろげる日々の出来事に驚愕しながらも、さまざまな人間模様を見聞きしていく。ラオジャンは読み書きができず、台湾語は聞き取ることもできない。彼はまだ十代の少年だったころ、敗走する国民党軍に拉致されて兵士にされた。拉致されたのは畑仕事の帰り道、家はすぐそこで、母は夕飯の支度をしながら彼の帰りを待っていたはずだ。母に別れも告げられないままラオジャンは台湾に渡ったのだが、早や20年の月日がたっている。特約茶室は最初はそうした兵士たちのために設立されたのだろうが、いまは兵役中の青年たちも列をなす。一方で送り込まれてくる娼婦たちもそれぞれに複雑で悲惨な過去を背負っているようだ。


 シャオバオは文字を書けないラオジャンのために手紙を代筆してやり、台湾語を解せぬ彼をなにかと手助けする。ラオジャンは娼婦アジャオに思いを寄せてプレゼントを繰り返し、結婚の申し込みをして結納金も工面した。ラオジャンが長年心に秘めている夢は、家族を連れて大陸の故郷の母に会いに行く、というものだ。だがそれは、アジャオから見れば、いやたぶんラオジャン以外の誰から見ても、絶対に叶わぬ夢だ。それをアジャオからはっきりと指摘されたラオジャンは、一瞬の狂気にかられてアジャオを殺してしまう。


 シャオバオと同郷のひ弱な兵士は、仲間からの凄絶ないじめに耐えかねて、娼婦とともに逃走を図る。いちばん近い大陸の陸地を目指して手を携えて海に入ったようだが、行方知れずになってしまった。シャオバオは娼婦ニーニーと言葉を交わすようになる。ニーニーは夫殺しの罪を犯したが、早く刑期を終えて子供の元に帰るために831部隊に来た。若く純情な青年と苦労を重ねた年長の女性のあいだに、いっときの温かいつきあいも生まれたが、ニーニーは恩赦を受けて部隊を去って行く。金門島では兵士も娼婦も島民も、砲弾の飛ぶ奇数日には防空壕に身を寄せて過ごしたものだ。しかし兵役を終えて島を去ることになったシャオバオにとって、あの歳月はいったい何だったのだろうか。


 映画の結末部では、金門島で同じ時間を共有した者たちが、一瞬であれ思い描いたかもしれない夢がスチール写真で語られる。いじめを受けた兵士は一緒に逃走した娼婦と天安門にたどりついた。ラオジャンの写真は、殺してしまった娼婦とともに台北でレストランを開き、子供もできたというものだ。シャオバオはニーニーとその息子とともに笑顔で写真におさまっている。パラパラと風が頁をめくるような軽い調子で示されるこれらの画像は、かえって軍隊に内包されている、ひいては国家に内包されている虚無を、じわじわと訴えかけてくるように私には感じられた。


 この作品がつくられるまでに、台湾映画にはさまざまな積み重ねがあった。台湾では従来、軍教片と呼ばれる軍事教育映画が大量に作られている。中華民国政府は1949年に渡台以来、「大陸反攻(中国大陸を攻め返す)」を国是として国軍を強化し、男子全員に兵役を課してきた。国防部は独自の映画制作会社や豊富な資金を持ち、プロパガンダ映画をさかんに作ってきた。一般の人々にも軍事は身近な大問題のひとつだから、民間のプロダクションでも戦争もの軍隊ものは数多く作られ一定の人気を博してきた。よく知られた作品には、1958年の金門島での中国との砲撃戦を描いた『八二三炮戦』、兵役や軍事訓練などをコミカルに描いたシリーズもの『報告班長』などがある。どれも愛国心を鼓舞し、国のために身を投げだすことを称揚するものだ。


 兵役、あるいは中華民国国軍兵士として台湾にわたってきた老兵などは、娯楽映画でも台湾ニューシネマ作品でもあつかわれてきた。たとえば兵役のことは、ホウ・シャオシエン監督の『フンクイの少年』(1983年)『恋恋風塵』(1987年)でも描かれている。兵役は大人になるための通過儀礼だという意味合いで触れられている。『恋恋風塵』を注意深く見てみると、兵役中の青年たちがビリヤードをしながら交わす会話のなかに身近にある娼館がでてくるが、兵役生活の一コマというごく軽い調子のものだ。従来は兵役の否定的側面はほとんど描かれてこなかったのに対して、『軍中楽園』では兵士間の残酷ないじめも描かれ、「なぜ兵役などというものがあるのか」という兵士の苦しい訴えの言葉もセリフとなっている。


 老兵については、1980年代に台湾ニューシネマの若手監督と目されていた李佑寧(リー・ヨウニン)が老兵を主人公にした映画を2本撮っている。いずれもニュースで話題を呼んだ出来事に脚色をくわえたもので、『老兵の春(老莫的第二個春天 モーおじさんの第二の春)』(1984年)と『老柯的最後一個秋天(クーおじさんの最後の秋)』(1989年)だ。前者は軍隊を退役した老兵が、結納金を用意して若い先住民族の娘を紹介してもらい、結婚する。さまざまな行き違いをなんとか乗り越え、二人は幸せな家庭を築いていく。息子も生まれて、老兵は大陸へ帰る船賃を計算しながら、家族で故郷に帰る夢を語る。制作当時はまだ戒厳令下で中国大陸への渡航が自由化される前のことだ。一方で後者は、軍隊を退役してタクシー運転手になった老兵が、小さいときから可愛がっていた近所の娘の苦境を見かねて国営の土地銀行で銀行強盗をしようとする話だ。「俺は一生を国にささげたが、国は何もしてくれなかった。国家の金は俺の金だ」のセリフが当時共感を呼んだが、この映画は映画を統括する役所・新聞局電影処からは歓迎されなかった。


 もうひとつドキュメンタリー映画でも、見落とせない作品がある。金門島を舞台にした『単打双不打(奇数日は攻撃日、偶数日は休戦日)』(1994年 董振良監督)で、中国が発表した、隔日砲撃の方針がそのままタイトルとされている。戒厳令解除後は台湾では社会問題を鋭く突きつけるドキュメンタリーの佳作が次々に生まれたが、これはそのひとつだ。董振良(ドン・ジェンリャン)監督は金門島出身で、金門島の人々に自分たちの体験を演じさせた部分を挿入して、住民から見た金門島の現実を生々しく描き出した。『軍中楽園』で描かれているのは、1969年当時でも砲撃は続き、兵士は逃げまどい、住民たちも防空壕に避難するようすだ。このありさまを最初に訴えたのが『単打双不打』で、“大陸反攻”が国是とされた5,60年代に、金門島ありさまは政府や軍が宣伝した“神聖なる戦役”“名誉の戦役”などとは遠く隔たっていたことを訴えていた。


 ニウ・チェンザー監督についても触れておきたい。彼は原籍は北京で、1966年台北で生まれて永春街にあった眷村(家族村)で育った。台湾にわたってきた外省人の二世ということになる。眷村についても説明しておきたい。1949年国共内戦に敗れて台湾にわたった国民党軍は一般庶民も含めて約150万人と言われる。当時の台湾の人口が約600万だからその人口急増のさまは、容易に想像がつく。軍としては少なくとも軍人に対しては住居もないまま放っておくわけにいかず、俄か造りの住宅を建設してそこを眷村とした。その数は台湾全島で530か所にのぼったという。眷村の住人は社会的階層や身分はさまざまだったというが外省人が集まって暮らしていたわけで、本省人から見れば内部をうかがい知ることができない外国のようなものであった。眷村で育ってのちに芸術、政治、学問などの分野で活躍するようになった人は多い。李佑寧、ホウシャオシエンん作品の脚本家であり小説家でもある朱天文なども眷村育ちだから、台湾で一時期、独特の文化を醸成した場所ともいえるかもしれない。


 なかでもニウチェンザーの場合は、原籍が北京だから、戦後台湾で国語とされた、いわゆる北京語、正しい中国語をしゃべる一家だったことになる。父親はニウチェンザーが子供のころに倒れて寝たきりだったというが、母親および母方の祖母は台北師範大学語言センターで中国語を教えた。外省人の社会で育ったわけだから、台湾人とはだいぶ違った体験をしていると思われる。李佑寧もそうだが、老兵を身近に見てきたのが彼の作品作りのモチーフとなっている。ニウチェンザーの場合も、中国大陸や北京への思いが強いようだ。『軍中楽園』にもラオジャン役の陳建斌をはじめ多くの中国人俳優を起用しているが、言葉の訛りや仕草などに、台湾人俳優では演じられないリアリティを求めたためだと思われる。


 そのぶん『軍中楽園』ではラオジャンの背景や感情はこまやかに深く描かれている。それに比して娼婦の背景や感情は、やや浅い描写になっているのは否めない事実だ。本省人から見れば、中国大陸から来た兵隊たちのために台湾人女性が娼婦として送り込まれたわけで、そのことに対する反発は強い。

フィリピン  子供と年寄りにやさしい国 

 


 8月初旬に、10日足らずだがフィリピンを旅した。
 こんな短期間の旅で、行った先のことを語るなど、おこがましいことだ。そうは思うのだが、7700もの島から成るこの国を島から島へと移動しつつ感じたことがあるので、それを書いてみたい。というのも、ここはほんとうに子供と年寄りにやさしいところだと感じたからだ。


 フィリピンの島々を行き来するのは、船か飛行機だ。船旅はなかなかいいと勧めてくれた人もいたが、なにしろ時間がかかりすぎるので、やはり移動は飛行機を選んだ。たくさんの島があるから、人々は日常の交通手段として飛行機を使っているのだろう。国内便のセスナ機に乗る飛行場は、まるで大型バスターミナルのような雰囲気だ。体育館みたいな感じの広い待合室の前方には改札口さながらのゲートがあり、そこを通ると広い飛行場を背景に何機かのセスナ機が並んでいる。ゲートから飛行機まで歩き、乗降口にかけてある梯子を上って飛行機に乗るというわけだ。 


 まずマニラからレイテ島へ向かうことになった。さすがマニラだけあって、発着便数も搭乗者数も非常に多い。そのうえマニラの交通渋滞はひどいから、私もそうだが皆早めに空港に向かうことになる。それで必然的に待ち時間も長くなる。同じような事情を抱えた人々で待合室は混みあっていて、よくも皆いらいらもせずに待っているものだと感心した。


 やっと空席をみつけてなんとか腰をおろすと、すぐそばの席で、3歳ぐらいの男の子がすさまじい声で泣き叫びだした。若い小柄な母親は辛抱強くなだめているが、なぜか坊やは泣きわめき続ける。私は母親が気の毒になって、バッグから飴玉を探し出して近づいた。見ず知らずのヘンなおばさんが、見たこともない日本の飴玉をもって声をかけたら、坊やはびっくりして泣きやんでくれるのではと期待したのだ。だが全然効果はなかった。仕方なく飴玉は母親に手渡し、私は気にしてないからねとサインを送って自分の席に戻った。私の娘も小さいころは聞かん坊で、電車の中でも店の中でもわけもわからず癇癪を起し、身のすくむ思いをよくしたものだ。考えてみればあの癇癪も、喋れるようになったらウソのようになくなったが。


 泣きわめく坊やへの私の反応が珍しかったのかもしれない。隣の女性が話しかけてきた。「どこから来たの? どこへ行くの?」からはじまり、坊やが泣いている理由を説明してくれた。待合室の小さい売店で玩具の銃を目にして、それが欲しいとせがんでいるのだという。他の人たちはいきさつを知ってか知らずか、坊やがそのうちあきらめるだろうと静観しているようすだ。あらためて見まわすと、母親に非難の目を向ける人はほとんどいないようで、母親の方も驚くほど冷静に忍耐強く子供をなだめ続けている。


 すると近くの男性が母親に、荷物を見ていてあげるからひとまわりしておいで、とでも言ったらしい。しばらくして戻ってくると、どういう風の吹き回しか、坊やは銃を買ってもらった様子もないのにケロッと泣きやんでいた。そして飛行機の出発のアナウンスを機に母親が立ちあがると、坊やは激しい泣き声の主とは思えぬはにかみ顔で、私にバイバイと手を振って飛行機へと向かっていった。この蒸し暑い不快な待合室で、あの泣きわめく声に嫌な顔ひとつ見せない人々を、私は不思議な思いで見渡した。こういうふうだったら、日本での子育てだって数倍楽なはずだ。


 さて私の搭乗時間になり、ゲートを出ると日傘用に赤い傘を手渡され20メートルほど離れたセスナ機に向かった。すると若い女性が私に近寄り、「お手伝いが必要ですか?」と声をかけた。なんのことかわからずとっさに「大丈夫です」と答えた。飛行機の梯子を登りながら、ああそうかこれを登るのに手を貸してあげようという意味だったのだと気づいた。私は日頃から運動を心掛けていて、ジョギングで3キロなら軽くはしれるのが秘かな自慢だ。それでも見かけは間違いなく老人なはずだが、日本ではこんな声をかけられたことは一度もない。そのあとも、パラワン島のコロンというところで舟に乗って美しい海を巡ったが、ガイド役の30代の男性も助手の若い青年たちも、さりげなくタイミングよく手を貸してくれた。静かな海を夢見心地で眺めながら、景色もさることながら人々の温かさが心に沁みた。


 つぎはこちらのヘマから起きたことなのだが、驚くような親切に触れた。レイテ島からセブ島に向かう飛行機の時間を勘違いして、ホテルを出たのがぎりぎりの時間だった。車が走り出したとたんに電話が鳴った。「もう全員搭乗がすみました。あなたも乗るなら、あと10分で搭乗手続きをすませてください」とのこと。運転手には気の毒なほど猛スピードで走ってもらい、空港に着くと警備員が3人待ち構えていた。そして私の荷物を全て抱えて搭乗カウンターにダッシュ。荷物検査にダッシュ。そして搭乗口を出ると、「はい、あとあそこまで全力疾走」とばかりに、出発直前のセスナ機を指さした。飛行機に向かって走る私たちに、さっき搭乗手続きをしてくれたスタッフが裏口から出てきて、満面の笑顔で手を振り、「よかったねえ、いってらっしゃい」と見送ってくれた。あきらかにこちらのミスでハラハラさせ、余分な手間をかけさせたに違いないのに、あんな笑顔で送りだしてくれる人が、ほかのどこにいるだろう。


 そして最終日。翌日の日本向けの飛行機が朝早く出発するので、空港近くに宿をとった。早めに夕飯を食べて早めに寝ようと、近くのショッピングモールへでかけた。おいしい食事をすませて宿に戻ろうとすると、交差点を一回曲がっただけの単純な道筋だったはずなのに、迷ってしまった。仕方なく何かの制服を着たおじさんに道を尋ねた。すると「これに乗りなさい」と、オートバイにサイドカーをつけたトライシクルよりもう少し乗り心地のよさそうなカートを指さした。これに乗るほど遠くはないはずだが、とは思ったが言われるままに乗り込むと、宿の真ん前でぴたっと止まってくれた。料金を聞くと、「いらない」とのこと。なんでも、このカートは老人および妊婦向けの無料サービスなのだそうだ。驚いた。日本では私と同年輩の人たちは競って若く見られるよう努力をし、その反面で年相応と思われる気遣いはあまりされたことはない。


 翌日早朝、空港のターミナル入り口で厳重なチェックを受ける。建物内には搭乗券を持つ人しか入れないので、見送りの人ともここで別れることになる。前夜から天気予報をチェックしていたが、東京には到着時間ごろ強力な台風が接近するとのことだった。だからそもそも飛行機は出るのかと危ぶみ、飛行機がキャンセルになった場合、あるいは日本到着後の交通トラブルにそなえて、いくつかの心づもりもしていた。そんなふうにちょっと緊張の心持で空港の男性スタッフをつかまえて「×××便のカウンターはどこでしょう」と訊くと、彼は「あなたは高齢者ですか?」と訊き返し、こちらの返事を待たずに高齢者専用カウンターを教えてくれた。おかげでほかのカウンター前につらなるいくつもの長い行列を尻目に、私はまったく待つこともなく手続きをすませた。


 さてもうひとつおまけだ。空港のターミナル入り口まで送ってくれた娘に、飛行機が無事出発することを伝えなければならない。娘は進行中のプロジェクトが仕上げ段階で忙しいはずだが、私の状況に合わせて今日の日程を変更してもいい、と言ってくれていたからだ。私は今回の旅ではSIMなしスマホを持っていて、Wifiのある場所でスカイプ通話を利用していた。ところが空港のあちこちで娘へスカイプ通話を試みたが、接続が弱くてつながらない。公衆電話をみつけたがテレホンカードが必要で、テレホンカードの売り場は近くにはないという。さあ困った。余計な心配はかけたくない。そこで搭乗口近くの椅子に腰かけていたフィリピン人女性に事情を話し、「スマホを貸してくれないか」と頼んでみた。


 その女性は気軽に承知し、娘の番号を打ち込んで私に話せとうながした。ところが移動中なのか娘は出ない。するとその女性は「じゃあメッセージを送ってあげる」と、読み上げつつ打ち込んでくれた。「あなたのお母さんが、私に連絡してくれと頼んでいます。お母さんはまもなく無事に東京へ出発します。心配しないで、とのことです」と。まもなく娘から「ありがとう」と返信があり、彼女は「確かに伝わったわよ。よかったね」と喜んでくれた。
 フィリピンの人々の、やさしさに、そしておだやかさに、しばしば驚かされた旅の9日間だった。もっとこの国を知りたい、と心から思う。

梅の恵み 夏の哀しみ

 

 


 台風がらみの雨がつづいて、今日は久しぶりの快晴。午後は暑かったのでずっと本を読んだり手仕事をしたりして過ごした。いま読んでいるのはイアン・マキューアン著『愛の続き』、たしか3回目だ。夕方4時半をまわったころ、少しは体を動かそうとジョギングにでかけた。すぐ近くの神社や城跡の木陰を選んで走ってみたが、まだ日は高くやはり暑い。そこでジョギングはやめることにして帰りかけたが、ふと思いついて家を通り過ぎ畑に向かった。梅がもうそろそろ終わるころだ。


 梅の木の下には、丸々とした黄色い実がたくさん落ちている。それでも木を見上げればまだ残っている実も多い。手が届くあたりを手早く摘んだだけで、バッグはたちまち持ち重りするほどになった。欲張らずに切り上げて帰ることにした。夕方は蚊が多いというから、虫刺されでひどい目に遭ったばかりだし、用心しようというわけだ。10日ほど前に虫にさされた翌朝、顔の左半分が腫れあがってしまったのだが、その後ハーブで作られた防虫スプレイを手に入れた。スプレイボトルを玄関に置いて、外出前には柑橘系の香りを吹きかけることにしているが、虫はなかなか油断がならない。つい先日も手袋のうえから手の甲を刺されてしまった。考えてみれば、手の甲あたりはスプレイが行き届かないところかも知れない。


 畑を通り抜けながら、2,3日前に植えたモロヘイヤの苗のようすを見てみた。すると、4本植えたうちの元気のよい1本がつぶされている。苗の周りが微かに丸くへこんでいるところを見ると、誰かが、というより猫かまたはハクビシンか何かが、ここに横たわったらしい。植える前に庭のコンポストから堆肥を運び出してここに埋めた。我が家の堆肥はほとんど匂わない、というより堆肥らしいいい匂いがする。人間は気づかなくても、彼らにしてみればその匂いに引き寄せられるのだろうか。ぐにゃっとした苗が生き返るかどうかはわからないが、土をかき寄せてまっすぐに起こしてから、また何者かが寝転んだりしないように棒をたてた。


 家に帰ってから梅を測ると1.5キロ余りあった。ざっと水で洗い、しばらく水につけておく。もうだいぶ熟れているからあく抜きの必要はないかもしれないが、念のためというわけだ。あく抜きをうまくやらないと渋みが残ると、先日友人がせっかく作ったジャムの不出来を嘆いていた。5,6時間水につけたあと梅をざるにあげ、竹串でヘタを取る。電気炊飯器に梅を入れると蓋がやっと閉まるくらいいっぱいになった。1週間ほど前に作った梅ジュースと梅ジャムの甘さがちょうどよかったので、砂糖の割合は先回と同じにしようと計算してみたら370グラムだ。梅に甜菜糖とほんの少しの水をくわえて保温のスイッチを押す。これだけで明朝には梅ジュースができ、残りの梅をタネを取り除いて煮詰めれば梅ジャムもできる。酸味のあるジュースとジャムは、暑い盛りには舌に心地よい。


 暑い時期には、こんなふうに時間を過ごすのがいい。我が家では昨年暮れごろに、庭の大木を20本ほど伐採した。もともと自然林の延長のような庭だから、伐採した後も心配したほどの変化はなかった。けれど夏に向かうと、西側の深い木立がなくなったせいで午後の日差しの暑さが不安材料になってきた。昨年までは冷房も扇風機もなしで、暑さを嘆くことなどついぞなかったのだが。そんなわけで近ごろは、夏をいかに快適に過ごすかをしきりに考える。


 暑い日は、午後になると涼しい居間や台所に移動し、手仕事に熱中する。すると時間のたつのを忘れて、ふと気がつくと夕飯どきだ。しかも手仕事というのは、費やした時間に応じて、具体的なものを生み出してくれる。だから満足や楽しみも増すものとばかり思っていた。ところがそうはいかないのは、いったいなぜなのだろう。あちこち工夫を凝らして仕上げたワンピース、梅漬けの壺、ジャムの瓶詰といった、自分が作り出したものを目の前にならべてみる。それはそれでうれしいのだが、心の底に沸いてくるのは、そこはかとない哀しみだ。


 思えば子供のころから、夏の日盛りには気の遠くなりそうな解放感と同時に、いつも寂しさや哀しみが心に貼りついていた。庭で姉妹や従姉たちと精一杯はしゃぎまわっていたときも、川遊びや山遊びに父がつれだしてくれたときも、私は楽しんでいるふりをしていただけで、心の奥ではひそかに寂しさや哀しみをかみしめていたような気がする。

伏兵あらわる

 


有機農法の講演会を聞いてから、私は異様なほどよく働いた。早朝2時間余りの畑仕事。小梅を2キロ漬けた。1キロは塩と砂糖を使って、もう1キロは塩だけで。塩は少なめにしたが順調に梅酢が梅を覆ったので、紫蘇を入れて暗い場所にしまい込んだ。そうだ醤油麹と塩麹も作った。煮干しをコーヒーミルでくだいて粉末にして、味噌汁とともに煮干しの骨まで食べることにした。などなど。みな、有機農法の講演会でさかんに勧められた食生活に近づくための工夫だ。


ところが、早朝の畑仕事が佳境に入りつつあった3日目に、思わぬ伏兵があらわれた。畑から戻って朝食を食べているとき、左のこめかみを虫に刺されているのに気づいた。10日ほど前には右こめかみを刺されていて、それは1週間ほどで腫れが引いた。だからこんどもそのはずであった。午後はヨガ教室に行き、ほどよく疲れて早めに就寝。

 

ところが翌日早朝に目覚めると、なんだか変だ。左目が開かない。鏡を見て驚いた。左こめかみの腫れが左目周辺一帯にまでおよび、左瞼が腫れ上がって目をふさいでいる。仕方なく医者に行って、アレルギー症状を抑える飲み薬と、虫刺されやかぶれに効くという軟膏をもらってきた。これで2,3日ようすを見て、腫れがひどくなりそうなら週明けまで持ち越さずにもう一度来院するようにとのこと。もしかすると私が思っているよりも重症なのだろうか。


あーあ、私の人生って、なんだかいつもこんなふうだったような気がする。おもしろい、と飛びついてたちまち夢中になる。すると冷や水を浴びせられる。けれど、それでも続けてきたことがいまとなればいくつもある。それにしても今回は、冷や水ぶっかけられるのが早すぎはしないか。いったいどうなることだろう。


目下の対策は、虫よけの薬効を発散する腕時計タイプの器具を、必ずつけること。早朝は肌寒いほどだから虫も出ないだろうと侮ったのがよくなかった。そして私は嫌いなのだが、登山者などがよく使うというスプレータイプの防虫剤も、必要とあれば併用すること。これから暑くなるから虫刺され対策は、いっそう重要になるはずだ。


そうやって、私が心にひそかに描いている我が畑の図を、やはり少しでも実現に近づけたい。雑草が地面を青々と覆っているのに、おいしい野菜が獲れるという、あれだ。しかし焦るのはやめよう。まずは瞼の腫れが引くのを待たなければ。だいたいこれでは、見たい映画も見に行けないではないか。たしか「ロンドン、人生はじめます」(ジョエル・ホプキンス監督)の上映が、相生座ロキシーで今日までだったはずなのだ。あれは見たかったのだが。

有機農業、勉強会

 


上田に行ったときに、偶然に有機農業の講演会のチラシを手に入れた。最近はチラシ類もずいぶん色とりどりだが、このチラシは水色の紙に墨一色、しかも昔懐かしい手書きで楽しいイラストが添えられている。一枚しか残っていないチラシを手に取って、まず講演会の場所と時間を確認する。私が行かれないなら、このチラシは他の人にゆずらなければ、と大事にする気持ちが自然に生まれている。幸い行かれそうなのでチラシを頂き、さらに友だちを一人誘った。彼女は子供時代から農業になじんでいる、私の指南役だ。


演題は「雑草も害虫も病原菌も敵じゃなかった~野菜も人も元気になる方法」。やったぜ、という感じだ。私もこの精神で畑をやりたい。いややっているがうまくいかない。これで知識を蓄え、周囲の白い目を跳ね返してやりたい。講師は私には未知の吉田俊道農学博士。大学退官後は長崎で「菌ちゃんファーム」という農場を運営し、有機農法を実践し、しかもかなりの収益もあげているそうだ。


私の畑歴は、足掛け5,6年といったところか。せっかく自分で作るからには農薬や化学肥料は使わない、と頑張ってはみても、知識・経験・体力・忍耐力と全部不足で、実は畑はかなり悲惨なありさまだ。いくらなんでも雑草生え放題にしておくわけにはいかないから、畑のかなりの部分に香菜(シャンツァイ)を繁茂させている。別名パクチと言われるこの野菜は、香りが独特なせいで好悪がはっきり分かれるが、私は大好きだ。もともと種をくれた台南に住む友人は、勝手に私の畑を想像して、毎日新鮮な香菜が食べられるなんて羨ましいと言っている。


というわけで、ただの雑草だらけではないものの、周囲の勤勉な畑人から見れば、やはりだらしない畑に見えるのは否めないだろう。この5,6年、私なりに努力はした。ある年には水ナスが大木のように育って一夏の恵みをくれた。またある年はミニトマトが大豊作で、もったいないのでケチャップを大量に作った。だがこれらは偶然そうなっただけで、自分が望んでその通りに行った例は、ほぼ皆無だ。このあたりでは庭先などでも、皆りっぱにキウリやナスを作っているが、そういう夏の定番野菜に関しては、私はうまく行ったためしがない。


さて、講演会当日。開演より40分も前に到着したのだが、驚いたことにすでに会場はもう活気がただよっていた。上田郊外の塩田公民館という立派な建物の大ホールは、ならべてあった椅子をさらに増やして、180人の聴衆で埋まった。男女比は半々ぐらいだろうか、幼い子供を連れた若い人からお年寄りまで、なんとか役に立つ知恵や知識を仕入れたくて、うずうずしているのがよく分かる。たぶん私を除いて皆それなりの腕前なのだろうが、であればもっともっといろんなことを知りたくなるのが畑仕事だ。


講師の吉田俊道先生は、サービス精神満点の楽しい話を聞かせてくれた。豊富な知識と有機農法実践者の経験とで、深くうなずきたくなる話題の連続だ。聴衆とのやり取りも、それぞれの経験に裏打ちされていて興味深かった。私にとって新鮮だったのは、虫は弱った野菜につく、ということ。野菜を丈夫にすることが、虫をはねのける最大のコツなのだ。それに虫にも菌にも雑草にも、それぞれの役割があるのだから敵視する必要はないこと。なんだか目の前が明るくなっていく。よし、いい土をつくって、青々と雑草が地面を覆っている畑で、おいしい野菜を作ってやろうと元気が出た。おいしい野菜を食べておなかの中まで健康になったら、どんなウンチが出るか、なんていう話もあった。私は初めて聞いたが、これは、考えてみればかなり大切な知識ではないか。


講演を聞いた翌日から、何が変わったか。早朝約2時間の畑仕事をするようになった、と言ってもまだ3日目にすぎないが。いろんな話の中から、私にできることをみつけて実行する。すると野菜がおいしくなる。健康になる。今年の夏は早朝2時間の畑仕事、次は昼までの書斎仕事、午後は寝転がって本を読んだり庭仕事をしたり、漬物などつくったりもしようかな。食にじかにかかわること、自分にも地球の未来にもよいことを実践することは、本当に気持ちを明るくする。あの有機農法講演会の、会場全体の明るい雰囲気は、あそこに集まった人々の気持ちをそのまま反映していたのだろうと、いまさらながら感嘆している。

死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの


 永山則夫のことをもっと知りたくなって、同じ著者の本をもう一冊読んだ。『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』堀川恵子著だ。


 先日取り上げた石川義博医師による精神鑑定書は、永山の生い立ちを精緻に追っていき、彼がなぜ4人を殺して連続射殺魔と呼ばれるに至ったかを探ったものだ。当時の裁判官がのちに語ったところによれば、石川鑑定と呼ばれるこの鑑定書は非常に優れたものだと思ったそうだ。しかしながら永山が事件当時19歳という未成年とはいえ、4人殺害という犯罪の重大さを鑑みて死刑にしないわけにはいかなかったのだ、という。1979年、永山に死刑判決が下された。永山は30歳になっていた。弁護団は、被告の完全責任能力を認めたのは事実誤認として、東京高等裁判所に対して控訴手続きをとった。


 死刑判決が下された後、永山は獄中で結婚した。相手は新垣和美。沖縄出身で、その後は母とその再婚相手の元でアメリカで暮らしていた。彼女はふとした偶然から永山則夫の著書「無知の涙」を読み、強い共感をおぼえて永山と文通を続けていた。彼女もやはり子供時代に母親に捨てられたと感じた経験があり、永山の著書によって救われたという。彼女の決心は固く、永山からは止められたにもかかわらず一人で来日を決めた。親もアメリカの永住権も捨てて、永山とともに生きる覚悟だった。来日以来、彼女は毎日永山に面会して会話を重ね、永山と結婚した。さらに、永山が射殺した人の遺族を訪問して謝罪をし、彼らの思いに耳を傾け、「無知の涙」の印税を受け取ってもらおうと努力した。


 親の愛に飢えて育った永山にとって、自分を愛してくれる女性の存在は大きかった。死を待つばかりだった永山は、和美と生きていくことを考え始めた。永山裁判では弁護団は何回も解任就任を繰り返しているが、死刑判決後の控訴手続きのあと第4次弁護団は解散。一審の途中から弁護にあたっていた鈴木淳二弁護士、弁護士二年目の大谷恭子弁護士が就任していた。彼らの努力によって、永山則夫はそれまでの法廷で闘う姿勢を変え、真摯に自分の罪状やその後の思いを語るようになった。将来の夢として、もしできるなら子供たち同士が助け合うような塾を開きたいと述べたという。1981年、東京高裁の船田三雄裁判長は一審の死刑判決を破棄、無期懲役の判決を下した。その根底には石川鑑定の存在があった。劣悪な環境で幼少時を過ごさざるを得なかった被告の事情を、深く斟酌したものといえる。


 しかし永山に無期懲役の判決を下したいわゆる船田判決は、マスコミの激しいバッシングにさらされることになった。死刑制度が存在する以上、永山を死刑にしない理由はない、という論調が主流だった。東京高等検察庁は、東京高裁の判決は判例違反だとして最高裁判所に上告した。


 思えば19歳の連続射殺魔永山則夫にとって、獄中ははじめての安住の場であったのかもしれない。食べるに困らず、暴力にさらされることなく眠れる場を得て、永山は猛然と勉強を始め多数の書物を読破した。マルクス主義に傾倒して、自分たちのような社会の底辺で貧困にあえぐものを踏みつけにして成り立っている社会に、怒りを向けるようになった。裁判は、そのような過酷な状況で育って罪を犯した少年を、社会がどう裁くかこそが問われていた。貧困を生み出している社会の責任を重視すれば、死刑判決は下せなくなる。しかし一方で、同じような状況で育っても、犯罪への道はたどらずに健全な社会生活を送っているものも多い、との世論も依然として根強く存在した。永山に死刑判決を下さなければ、社会的に著しい不公平が生じるとの声も大きかった。


 死刑か無期懲役か、つまり国家に殺されるのか、または生かされて被害者への謝罪をしながら生きるのか。このふたつのあいだで、翻弄されながら永山は獄中での日々を送った。1983年、最高裁は原判決の破棄と東京高裁への差し戻し判決を宣告。これは事実上死刑宣告を意味していた。


 これを知った永山は、大谷恭子弁護士にむかって「生きる気にさせておいてから、殺すのか」と言ったという。逮捕時から死刑を覚悟していたばかりか自殺未遂を繰り返していた永山が、読書や創作を重ね、結婚もし、か細い光を手繰り寄せるようにかすかな生の希望をつかもうとしたとき、その望みが断ち切られた。永山は離婚を口にするようになり、4年間の結婚生活を終えた。


 永山はその後も一人で獄中で創作を重ね、著書を発表し続けた。1987年、東京高裁は控訴を棄却。1990年、最高裁で永山の死刑が確定した。永山は41歳だった。彼は死刑執行を引き延ばすための再審請求は、一度も行わなかった。そして死の直前までたった一人獄房で書き続けた。1997年8月1日、東京拘置所内で永山則夫の死刑が執行された。永山則夫48歳。このとき執筆中だった小説のタイトルは「華」。いつものように机に向かっていたとき、突然刑務官が現れて処刑のために連れ出されたのだろう。原稿は、文章の途中でぷつりと途切れていたという。


 死刑が執行されたその日の朝、隣の房にいた大道寺将司死刑囚は、永山則夫があげたと思われる絶叫を聞いている。大道寺は「東アジア反日武装戦線」に属して連続企業爆破事件を起こした。また元刑務官・坂本敏夫は、永山の死刑執行から20年後に書いた手記に、永山の最期のようすを記している。それによれば、永山は「殺されてなるものか」と力を振り絞って、巨漢の刑務官数人の制圧を振り切ろうとした。そのせいで全身に無数の打撲傷や擦過傷を負い、無残な姿で処刑されたという。生涯孤立無援を貫き、知識を得るにしたがって激しく社会と対峙するようになった永山を象徴するような最期といえるかもしれない。


 ところでここに掲げた「死刑の基準」という本は、永山裁判のあと死刑判決を下す際に依拠されることの多くなったいわゆる「永山基準」について詳述したものだ。永山裁判が無期懲役か死刑かで争われたように、被告本人にとってはこの分かれ目はとてつもなく大きい。永山基準というのは、最高裁が二審の無期懲役判決を棄却して事実上の死刑宣告をくだしたときに示された判断基準を指している。最高裁は、極刑以外に選択の余地がないときにだけ「やむを得ず」死刑が適用されるという姿勢を保ちつつも、死刑を適用するかどうかの基準として、次の9項目を挙げた。(1)犯罪の性質、(2)動機、計画性など、(3)犯行態様、執拗(しつよう)さ・残虐性など、(4)結果の重大さ、特に殺害被害者数、(5)遺族の被害感情、(6)社会的影響、(7)犯人の年齢、犯行時に未成年など、(8)前科、(9)犯行後の情状、である。


 ところが近年とくに、上記の9項目に適応すれば死刑判決を下してもいいかのような曲解ともいえる風潮が出てきている。それには、著者はもちろん多くの人が危惧を抱いている。まるで犯罪者に対して社会全体の報復感情をぶつけるかのような動きが、目立っているのだ。永山則夫に関するこの2冊の書物だけでも明らかなように、永山の事件に至る事情というのは複雑を極め、犯行後の行動にもまた人々の想像を大きく超えるものがあった。そしてそれは多かれ少なかれすべての犯罪者に当てはまるのではないだろうか。しかも現在死刑判決が下されている事件のなかには、たとえば和歌山毒物カレー事件のように冤罪を疑われているものが少なくない。言うまでもなく、死刑とは国家による殺人行為であり、一人の人間の未来を永遠に奪ってしまうものだ。永山に無期懲役判決が下されたときに、死刑制度廃止の論議が一時的な高まりを見せた。やはりこれは早急に実現すべき課題ではないか。永山の足跡をいくらかなりと知っただけでも、国家権力による殺人はなくすべきだと痛切に思う。