村の時間 町の時間

 

 

 

『田んぼ(PAYO)』という芝居を見に行ってきた。
 演じる人たちに興味がわいたからだ。彼らは、フィリピン・ルソン島の北部山岳地帯に住む少数民族イフガオ族の若者たち。そのあたりにはさまざまな少数民族が暮らしていて、世界文化遺産・世界農業遺産などに認定された見事な棚田群があり、稲作が行われているのだという。タイトルからしてこの作品がその棚田をあつかったものであろうことは推測がつく。


 しかもそれが、信州上田市の商店街にある小劇場「犀の角」で上演されるのだ。上田も日本中にある他の中小都市同様に、旧市街区には閉店した商店が目立つ。人口減少や過剰な東京一極集中が地方都市を疲弊させている。その閉店された商店のひとつを改装して誕生したのが「犀の角」なのだが、小都市で暮らす人々が小劇場をもつというのも奇跡に近いすばらしいうえに、ここで地域の劇団がさかんに活動をしているのもすごい。住民に密着したわくわくするような文化活動の拠点になりつつあるようだ。それに信州のこの辺りは、昔に比べれば農業人口は急速に減少しているとはいえ、人々の生活の中に野菜作りなどのちょっとした農作業はしっかりと根づいている。そういう地域で、遠く離れたルソン島の農業の話が語られるのは、やはりいまの時代ならではの妙とでもいうべき出来事だ。


 舞台に登場したのは、いかにも少数民族ふうの、たぶん祭祀などで使われる色鮮やかな衣装を身につけた男女だ。言葉をしゃべらなければ、日本人と思ってしまうかもしれない体つき顔つきをしている。劇のあらすじとしては、ルソン島の山奥の農村に棚田の見学に来たらしい日本人のおばさん二人が、現地のガイドに案内されてあちこちを見物し、農業の実情があれこれ寸描で語られていく、というようなものだ。見事な棚田の風景などが背後のスクリーンに映写されて、想像をふくらませてくれる。ある農家では実家の田植えを手伝いに来た娘や息子が、あまりの重労働に不平を言ったり、手順をやかましく教える親といさかいをしたり、かと思うと楽し気に野良で昼食を食べたりしている。あるいは天気占いなどをする人が、迷信だとバカにされたり、占いを信じたばかりに収穫がうまくいかなかったと苦情を言われたりしている。機械化や都市化の影響、あるいはグローバリズムの波がこの棚田の地域にも容赦なく押し寄せ、若者は苦労が多く収益の少ない農業をきらって都会へ出て行ってしまうことなども語られる。芝居の最後は「変化を迫られる農業の現状を皆さんはどう思いますか」という問いかけで結ばれていた。


 この芝居のもうひとつの特徴は、環境NGOの活動のなかで作られたということだ。2001年に現地に環境NGOが設立され、日本やアジアの若者がつどって環境保護活動を進めつつ、棚田の耕作で培われた伝統的な技術や文化のすばらしさを当事者の農民たちに説いたという。そしてアートを取り入れた教育活動をするなかで、演劇というかたちで現状をみつめなおそうとしたのが、この『田んぼ』という作品に結実したということだ。


 しかしながら演じる人たちは学校の教師や社会活動を行っている人たちで、実家が農家でも農業を継いだ人はいないようだった。なるほど上半身があらわになる民族衣装で登場した彼らの贅肉のついた体つきを見れば、それは一目瞭然だ。このあたりでも農作業に携わる人はやはり日々の肉体労働で引き締まった体つきをしている。その意味では、NGOとともにいくら頑張っても時代の大勢にはなかなかあらがえないことを、演じている人たちが体現していることになる。


 そして、俳優だけでなく演劇制作にかかわった日本人スタッフたちも、やはり風情は都市生活者のそれだった。それは10年ほど前に東京での仕事を離れて信州に移り住み、見よう見まねでおぼつかない畑作業に取り組んでいる私には、よく分かる。都市生活者は口は達者だが、重要な何かが分かっていない。それが何であるかいまはまだ言えないが、自省を込めてよくそんなことを考える。思うに農業に真正面から取り組んでいる人は、なかなかそれについて語ったり、内情を外部に向かって伝えることはできない。農業というかなりの労力知力を要する仕事をしていると、そんな余力はなかなかないのかもしれない。それに農業に携わる人たちに流れている時間は、都市生活者の時間とはちがっていて、表現の仕方もまたちがっているのだ。


 話がずいぶんと飛んで恐縮だが、明治末期ごろの小諸の歌人の逸話を思い出した。
 明治43年の夏の終わりに、25歳の若山牧水がふらりと小諸に立ち寄った。牧水は当時すでに3冊の歌集を出版し、若人を中心とした熱烈なファンを獲得しつつあった。しかし酒好きのせいもあって貧乏から抜け出せず、病と失恋の傷心をいやすための旅の途次だった。牧水は土地の青年たちに手厚くもてなされ、青年らは楽しい時間を持った。


 その一人に、土屋残星というその後若くして亡くなった歌人がいた。彼はかつて小諸義塾で教鞭をとった島崎藤村の教え子で、日々農作業や銀行勤めに励みつつ文芸に熱い情熱を注いでいた。牧水が残星の家をふらりと訪ねたり、残星はそれを舞い上がるような心地で迎えたり、一方では野良をぶらぶらと歩く牧水と連れ立って歩きつつ、百姓仲間から注がれる視線に気恥ずかしい思いを抱いたりした。しかしその数年後、短歌雑誌の主導権をめぐって牧水が太田水穂と対立したとき、残星は考えた末に牧水とたもとを分かった。


 残星はそのころ、妻の前でこんな言葉を漏らしたという。
「牧水はたしかに歌はうまい。だがあのけんまく酒を飲んじゃあだめだ。あれじゃあ、信州の百姓はつとまらない」
 残星は夜明けとともに畑に出る生活をしながら歌を詠み続け、厳しい労働で体を壊して早世した。歌の数も知名度も牧水とはくらべものにはならないが、残星の生き方には人を惹きつけるものがある。
 もっと、都市生活者とはちがう時間の流れが世に流布するといい。町の時間で動いている世の中を、村の時間で動くように変えてみたい。同時に都市生活者とはちがう小都市や村に住む人のさまざまな嗜好や感覚ももっと広まっていくといい。

 

 

夏のあと始末

 

 


 日々、庭や畑の草刈りに追われている。と言っても、私の場合は雑草をべつに嫌っているわけではないので、切迫感はないのが救いだ。皆が毛嫌いする猫じゃらしやアカマンマの草藪も、しげしげと眺めれば可愛らしい穂が一斉に風にそよぎ、アカマンマの飾り気のない花が庭の一部分を赤く染めている。このまま残しておきたい気がして草刈り鎌を振るう手が止まってしまうのはこんなときだ。けれどそれにしても、今年は草が猛々しくはびこった。日本中が例を見ないほどの酷暑に見舞われ、涼しいはずのここ信州でも暑い日がいつまでも続いた。それでなるべく庭に出ないようにしたのが、これほど草を茂らせてしまった原因だろう。これまでもとくに庭の手入れを心掛けたことはなかったのだが、早朝や夕方の涼しい時間に何気なくぶらぶらと庭を巡り歩きながら、その都度目についた枯れ花を摘んだり伸びすぎた草を引き抜いたりしていたのが効果を発揮していたのだろう。


 ここまで繁茂した草を片づけていると、いままで気づいていなかったことを知ることになる。そのひとつは、蔓を伸ばしていく草の種類がとても多いことだ。そしてその細い茎や蔓がはるか遠くまで養分をはこび、大量の葉を茂らせてびっしりと花を咲かせ挙句は種を実らせているのも、大きな驚きだ。鎌や熊手で雑草を搔き集めると、蔓がひっかかってくる。その蔓を引っぱって手繰り寄せると、なんと30メートルもの長さのこともしばしばだ。落ち葉の下をくぐり、射干(シャガ)の茂みのを縫い、トサミズキの根のわきを抜けて、生い茂る二輪草と共存するかのように、目立たない薄黄色の小さい花をつけていたりする。蔓植物にも当然ながらそれぞれ特性があり、細かいトゲのある強靭な蔓で大木に絡みついて高く昇るものもあれば、地面を這って薄く柔らかい葉で地面を覆うものもある。それぞれが助け合って、数種類の蔓植物が寄り集まりテリトリーを拡げている場合もある。


 表の道路沿いのフェンスは人眼につきやすいから、少しきれいにしようと見回ってみた。するとなんと、何本かの蔓植物が大木の垂れ下がった枝先に絡みついて、そこから枝をさかのぼって木のてっぺんに到達しているのを発見した。モミジのような形の大きい葉が大木の表面を覆いつくしてフェンスにまでつながり、まるで緑のテントといったありさまだ。なるほどこのようにしてジャングルには動物の隠れ家などができていくのだな、などとはるか遠くへ間の抜けた空想を広げてみる。こんな多種多様な生態に出くわすと、単に生い茂った草を刈り取ると言っても、いつどのように刈るかが悩みのタネになる。たとえば、10年ほど前に都会を離れて自分の庭を持った喜びに浮かれて、フェンス沿いに朝顔のタネをまき色とりどりの花を咲かせてみた。それがいまや野生化して思わぬところで花を咲かせる。イチョウの木の高い枝に赤い朝顔がとつぜん咲く。または雑草から雑草へと蔓を伸ばして、紫、白、薄紅の朝顔があざやかな花園の様相を呈している場所もある。そのあたりに鎌を入れてうっかり蔓一本を切ってしまえば、この天然の造形の妙はたちまち消えてしまう。朝顔は秋の季語だそうだが、なるほど花の少ないいまの時期に、物寂しくもきりりと美しい姿かたちを見せてくれるのは、とてもありがたい。


 思えば植物を相手にした場合は、手を入れるときの思い切りというのが肝心なのだろう。ここに来たばかりのころは、見事な花畑や野菜畑をつくっている男が、畑のわきで私と立ち話をしながら、いまを盛りと咲き誇っているタンポポを鎌でばっさばっさと根元から切り取ってしまうのを目にして、私は危うく悲鳴をあげそうだった。こんなに輝くような美しさの花を、よくも切って捨てるなどできるものだ、と。だが私も曲がりなりにも庭や畑の手入れを数年重ねて、いまなら分かる。タンポポをはびこらせないためには、白い綿毛をつける前に切り取るのが効果的能率的なのだ。そうしなければ、ああいう美しい畑は維持できないのだ、と。だがそう知ったいまでも、私にはそれはできずにうじうじと植物を眺めているばかり、ということになる。畑仕事でもそれは同じだ。種を蒔き、芽が出たら適時に間引き、収穫を終えれば残っているものを惜しんだりせずに引き抜いて、他の作物に場所を譲る。あと始末のタイミングをつかむのも、私にはいまだにできない。


 こんなありさまだから、生い茂った草の始末はなかなかはかどらない。だがそれでもいいのだ。なぜなのかは分からないが、はたから見たら何をしているのかといぶかるほどの手際の悪い作業をしながら、それでも私は充分に楽しいのだから。けれど夏のあと始末に、わけのわからない時間が費やされているのだけは事実だ。もしかしたら、このまま自然に草が刈れてしまうのをただ待つのと同じ結果になるかもしれない。思えば人生の夏のあと始末にも、やはりなんとも言い難い無駄な時間が必要なようだ。そしてこちらには楽しみよりも苦い悔恨がつきまとうのではないか。そのうえ季節の移り変わりと違って人生の秋には、冬の訪れの時間を予測できないという難題がある。どうも始末が悪い。

 

クコ(枸杞)を摘む

 

 


 畑の雑草が丈高く茂ってしまったので、朝から畑へ出かけた。この夏は、あまりの暑さに畑仕事はあきらめたような格好だった。だから畑では雑草の穂がゆらゆらと揺れていて、その陰に野菜が隠れているというありさまだ。


 それでも野菜は実るのだ。もちろん手をかけて立派に育てられたものとは比較にもならないだろうが、雑草をかき分けるとナスが2個、ミニトマトもたくさんなっている。食べてみたら、やはりあの夏の盛りのキリっとした甘みはもうない。空心菜も1週間に一度は食卓にのぼるくらい獲れる。今日はほかにも小ぶりのビーツを4個、それにクコ(枸杞)の実を一皿ぐらい収穫した。


 そこでクコのまわりの雑草を抜くのに集中してみた。クコはこのあたりでは、川原や藪のなかに自生している場合が多いという。ならば雑草を除去する必要もなく、自力でたくましく広がってくれそうな気もするが、そのあたりはなんとも自信がない。とりあえずは、クコの収穫量が増えるといいなあと願っている、というところだ。


 台湾へ行くと、おいしいスープにはたいていクコの実が入っている。女性の冷え性には特に効き目があると、友人が言っていた。彼女も機会あるごとにクコの実の入った料理を食べるそうだ。ほかにもさまざまな効用があり栄養価も高いようだが、私はきれいな赤い色、そしてほんのりとした甘みが気に入っている。


 日本でクコの実を手に入れようとすると、中華食材の売り場で乾燥した小袋入りのを買うしかない。台湾の市場などで山盛りにして売っているのを思い出しながら、日本では惜しみつつ少しだけ使うことになる。だから私の畑のクコのさしあたりの目標は、乾燥する手間をかけられるくらいの収穫量だ。


 思えばこの畑のクコにだって、それなりの歴史がある。あるとき近くの道の駅で、おじさんが何やらひょろりとさえない姿の苗木らしきものを売っているのが目に入った。「これなんですか」と尋ねると、なんと「クコ」との答えだった。たったの100円だった。大喜びで買い求める私を、おじさんは不審に思ったらしい。「これがなんだか知っているのか」と私に訊いた。「知ってます、赤い実がなるのでしょう」と言うと、ならばいいという感じで鉢を手渡してくれた。


 おじさんはついでに、こんな話も聞かせてくれた。クコはこの辺では実は厄介ものなのだ。繁殖力が強いからたちまち藪を作ってしまう。どんどん退治しないことには、他の花や作物がやられてしまう。しかも茎にとげがあるから、伐採するにも手間がかかる。実はこのクコも、畑のすみにしつこく生えてくるものだから、少しは金にでもならないかと思って、野菜と一緒に持ってきたのだ。「買ってくれる人がいるとは、思わなかったがねえ」とおじさんは笑った。


 おじさんには厄介ものでも、私にはたった100円で偶然手に入れた宝物みたいなものだ。鼻歌まじりで畑のすみに植えた。するとそれを目ざとく見つけた隣の畑のおじさんが、「それは、お宅の庭にでも植えたほうがいい」と言った。だが我が庭は大木が多くて日当たりが悪いのだ。せっかく見つけたクコだもの、日当たりのよいところで育てたいではないか。


 いま思えば、隣の畑のおじさんは、藪のようにはびこられたらかなわない、と思ったのだろう。実際、クコはしんなりとしなった枝が地面に触れると、すぐにそこから根を生やす。たちまち藪になる、という言葉が実感できる。だから、隣にはみ出さないようにだけは気をつけているのだが、それにしては実の収穫量は増えないなあ。どこに問題があるのだろうか。よし、なんとか工夫して、来年は収穫量を増やしてやろう。そして日々の食材の中に取り入れてやろう。

 

景品のベンチを、お返しします

 


 およそ10年前、信州に家を建てるときに、いちばん考えたのは冬の寒さ対策だった。当時住んでいた東京郊外で、時間をみつけてはモデルハウスを見学したり、建築会社の説明を聞いたりしたのも、いまとなっては遠い思い出だ。


 埼玉あたりでも床暖房などを導入した住宅は何種類か見られた。けれど信州の寒さは格別だ、ということを私は知っていた。あるときモデルハウスを見に行って、信州に家を建てる計画だということ、だから暖房に強い関心を持っていること、などを話した。するとその建築会社の人が、信州に暖房のことを非常に熱心に研究している建築会社がある、と教えてくれた。なんでも北欧などに住宅の暖房事情を見学に行く専門家のツアーがあって、そこでその会社の社長と知り合ったのだが、その好奇心の旺盛さと熱中ぶりは周囲をあきれさせるほどだった、という。


 そこで信州に行った折に、その会社に連絡を取ってみた。説明を聞いたり、モデルハウスを見学したりし、回を重ねるうちに、その会社が推奨するFB工法で建てた社員の家や社長の家も見せて頂くことができた。社長の家は豪華なものだったからあまり参考にはしないことにしたが、若い社員までが自社の工法で年相応のつつましい家を建てているとなれば、やはりこれは快適ないい家なのだろうと好感を持った。


 家は一生のうちに何回か建ててみないと、なかなか理想の家は作れない、とはよく言ったものだ。私たちの場合は、はじめて建てる家で、しかもたぶん終の棲家になるであろう家だから、考えに考えて建てたつもりなのだが、それでもやはり後悔はいくつかある。ただしこれは、別のやり方をしたら別の後悔が生まれていたかもしれないから、それほど深刻なものとは言えない。たとえば私の場合は、あと二部屋ほしかった、という後悔がある。けれども私は部屋数が40を超すような大きな家で育ったから、たぶんどんな家に住んでももっと大きい家への願望は残るのかもしれない。ちなみにつれあいは、ごく満足していてなにも後悔はないという。


 私たちの家は、無暖房住宅という方式を選んだ。断熱性保温性が高く、電気器具や人体が発する熱もすべて暖房として生きるほどだという。構造としては、密閉した地下室に普通の住宅の8畳とか10畳の部屋で使われるような、それほど大きくないエアコンを2台設置する。それで地下室の空気を暖める。外壁は厚みが50センチ余りあって、外側は古新聞を素材にしているという断熱材が分厚く詰め込まれていて、部屋に面した壁の表面近くには通気用の空間がある。そこを地下で暖められた空気が巡るという方式だ。だから暖気はジワリと壁全体から室内へと放射されることになり、家じゅうが同じ暖かさだ。暖かいというよりむしろ、寒くないと言った方が適切かと思えるような、自然な暖かさだ。


 この暖房方式の恩恵は大きい。冬でも木の床を素足で歩いても冷たくない。服を脱いでもひやりとする感じがない。もちろん時間帯によって室内に寒暖差が生じることもない。だからこれは私の悪癖なのだが、夜中にふと気になることがあって目覚めたりすると、躊躇なくベッドから出て書斎に足をはこぶ。執筆中の原稿を読みかえしたり、あるいは昼間読んだ資料の頁をまた開いたり、などということをするわけだが、真冬の真夜中でも寒さを感じるということはまったくないから、何時間でも仕事に集中できる。まあこの点だけを考えても、この家は理想に近いと言えるのかもしれない。


 しかし最近になって、こんなにいい家を建ててくれる会社が、どうしてこんなばかなことをするのかなあ、と思わざるを得ないことにぶつかっている。それは家を建てたときに、いわば景品としてもらった石のベンチのことだ。


 家を建てるというだけでもワクワクと楽しかった時期に、打ち合わせの場所は建築会社の支所の事務所を兼ねたモデルハウスだった。ひろびろとした贅沢な作りで、冬でももちろん暖かい。そこの玄関前に、建築会社のトレードマークの犬がついた石のベンチがあった。打ち合わせに訪れると、家を建てた人にはこのベンチを差し上げますとしばしば言われ、それを置いた庭のようすを思い描いていた。


 家が建って、住み始めてからしばらくしたころ、もうすっかり顔なじみの営業担当者が、我が家の裏木戸に車を横付けした。ベンチを運び込むには、表門より裏木戸からが便利だ、というようなことを彼はすっかり熟知しているのだ。私もどこに置いてもらおうかなどと考えながら、喜んで庭に出て彼を迎え入れた。ところが彼が運び込んだのは、あのモデルハウスの玄関前にあったのとはずいぶんと違う、ミニサイズのベンチだった。何でも半分のサイズにしたという。なぜかと訊いてみたら、これなら客のところへ運ぶのも一人でできるから、という。なんという勝手な理屈だろう。それを置かれた我が家では、腰かけることもできず、ベンチにくっついているトレードマークの犬の顔を見ながら、途方に暮れた。そして結局、それはまったく使い物にはならなかった。無理して座ったりしようものなら、後ろにひっくり返って頭でも打ちかねない。膝痛や腰痛だって引き起こしかねない。


 家を建ててからそろそろ丸10年といういまになって、思い切って建築会社に連絡をした。あのベンチは、思いもよらぬミニサイズだったせいで、結局使いもせずに庭に置いたままです。(実際のところ、今後足の運びがおぼつかなくなってつまずいたりでもしようものなら、使えないどころか健康を害す元凶にもなりかねない。)けれども御社のトレードマークがついているので、片づけようにも粗末に扱うことはできません。そこで、お引き取り願えないかと思うのですが、いかがでしょうか。


 営業担当はぶっきらぼうに、そういうことなら日にちの約束はできないが引き取りに行きましょう、と言った。これで一件落着ではある。しかしそれにしても、普通の半分のサイズのベンチを客にくれようなどとは、いったいあの会社は何を考えているのだろう。家の住み心地がいいだけによけい、心の隅に暗いシミができてしまったような感じがするのは残念なことだ。

『軍中楽園』 国家が抱える虚無をあぶりだした力作 

 

 


 台湾映画『軍中楽園』(2014年 ニウ・チェンザー監督)は、中華民国国軍が軍隊内で運営していた娼館を描いている。スキャンダラスになりがちなテーマに正面から取り組んで、ニウ・チェンザー監督が描こうとしたのは何だったのか。


 監督はこの作品について、印象深いことを語っている。「自分がこのテーマを選んだのではなく、このテーマが自分をひきこんだ。祖父母や父母の強い郷愁を感じながら育った私は、これを作らずにはいられなかった」と。なるほど、作品の中核となっているのは無理やり家族から引き離されて一兵卒として台湾にわたった老兵の、故郷や家族に対する深い思いだ。けれど私は、この作品は監督の意図をこえてもっと大きい問題を描き得ていると感じている。それが何かと言えば、国家というものが、おそらくどの国家であれ内包している、大きな虚無だ。


 映画の舞台は、中国大陸からわずか2キロの地点にある金門島。時代設定は1969年だ。1958年8月23日に金門島では中国と台湾のあいだの砲撃戦が勃発。10月頃には次第に終息したものの中国側が突如として隔日砲撃の方針を発表した。だから1969年といえば月水金には砲撃があり、火木土は休戦日というゲームのような戦闘に、島の人々が否応なく巻き込まれていた時期だ。


 映画の冒頭、兵役のために徴集された若者たちが揚陸艇艦に乗せられて、台湾本土から遥かに離れた金門島にやってくる。最前線と位置付けられている地に立って、彼らは気が逸るのを抑えきれないようでもある。そのなかのひとりシャオバオはいかにも朴訥な青年だが、いきなり士官長のラオジャンから手厳しい訓練を受ける。ラオジャンは強い訛りのある中国語を話していて、中国大陸の辺鄙な地から来た下級兵士であろうことが分かる。いまは軍隊内で若い兵隊を束ねる士官長で、かつて自分が味わったような過酷さを新兵に強いているということか。訓練中にシャオバオは泳げないことがばれてしまい、精鋭部隊からは外される。そして彼が配属されたのは、なんと831部隊だった。ここは別名「特約茶室」あるいは「軍中楽園」と呼ばれている娼館で、そこの管理がシャオバオの任務となった。


 シャオバオは娼婦や兵士がくりひろげる日々の出来事に驚愕しながらも、さまざまな人間模様を見聞きしていく。ラオジャンは読み書きができず、台湾語は聞き取ることもできない。彼はまだ十代の少年だったころ、敗走する国民党軍に拉致されて兵士にされた。拉致されたのは畑仕事の帰り道、家はすぐそこで、母は夕飯の支度をしながら彼の帰りを待っていたはずだ。母に別れも告げられないままラオジャンは台湾に渡ったのだが、早や20年の月日がたっている。特約茶室は最初はそうした兵士たちのために設立されたのだろうが、いまは兵役中の青年たちも列をなす。一方で送り込まれてくる娼婦たちもそれぞれに複雑で悲惨な過去を背負っているようだ。


 シャオバオは文字を書けないラオジャンのために手紙を代筆してやり、台湾語を解せぬ彼をなにかと手助けする。ラオジャンは娼婦アジャオに思いを寄せてプレゼントを繰り返し、結婚の申し込みをして結納金も工面した。ラオジャンが長年心に秘めている夢は、家族を連れて大陸の故郷の母に会いに行く、というものだ。だがそれは、アジャオから見れば、いやたぶんラオジャン以外の誰から見ても、絶対に叶わぬ夢だ。それをアジャオからはっきりと指摘されたラオジャンは、一瞬の狂気にかられてアジャオを殺してしまう。


 シャオバオと同郷のひ弱な兵士は、仲間からの凄絶ないじめに耐えかねて、娼婦とともに逃走を図る。いちばん近い大陸の陸地を目指して手を携えて海に入ったようだが、行方知れずになってしまった。シャオバオは娼婦ニーニーと言葉を交わすようになる。ニーニーは夫殺しの罪を犯したが、早く刑期を終えて子供の元に帰るために831部隊に来た。若く純情な青年と苦労を重ねた年長の女性のあいだに、いっときの温かいつきあいも生まれたが、ニーニーは恩赦を受けて部隊を去って行く。金門島では兵士も娼婦も島民も、砲弾の飛ぶ奇数日には防空壕に身を寄せて過ごしたものだ。しかし兵役を終えて島を去ることになったシャオバオにとって、あの歳月はいったい何だったのだろうか。


 映画の結末部では、金門島で同じ時間を共有した者たちが、一瞬であれ思い描いたかもしれない夢がスチール写真で語られる。いじめを受けた兵士は一緒に逃走した娼婦と天安門にたどりついた。ラオジャンの写真は、殺してしまった娼婦とともに台北でレストランを開き、子供もできたというものだ。シャオバオはニーニーとその息子とともに笑顔で写真におさまっている。パラパラと風が頁をめくるような軽い調子で示されるこれらの画像は、かえって軍隊に内包されている、ひいては国家に内包されている虚無を、じわじわと訴えかけてくるように私には感じられた。


 この作品がつくられるまでに、台湾映画にはさまざまな積み重ねがあった。台湾では従来、軍教片と呼ばれる軍事教育映画が大量に作られている。中華民国政府は1949年に渡台以来、「大陸反攻(中国大陸を攻め返す)」を国是として国軍を強化し、男子全員に兵役を課してきた。国防部は独自の映画制作会社や豊富な資金を持ち、プロパガンダ映画をさかんに作ってきた。一般の人々にも軍事は身近な大問題のひとつだから、民間のプロダクションでも戦争もの軍隊ものは数多く作られ一定の人気を博してきた。よく知られた作品には、1958年の金門島での中国との砲撃戦を描いた『八二三炮戦』、兵役や軍事訓練などをコミカルに描いたシリーズもの『報告班長』などがある。どれも愛国心を鼓舞し、国のために身を投げだすことを称揚するものだ。


 兵役、あるいは中華民国国軍兵士として台湾にわたってきた老兵などは、娯楽映画でも台湾ニューシネマ作品でもあつかわれてきた。たとえば兵役のことは、ホウ・シャオシエン監督の『フンクイの少年』(1983年)『恋恋風塵』(1987年)でも描かれている。兵役は大人になるための通過儀礼だという意味合いで触れられている。『恋恋風塵』を注意深く見てみると、兵役中の青年たちがビリヤードをしながら交わす会話のなかに身近にある娼館がでてくるが、兵役生活の一コマというごく軽い調子のものだ。従来は兵役の否定的側面はほとんど描かれてこなかったのに対して、『軍中楽園』では兵士間の残酷ないじめも描かれ、「なぜ兵役などというものがあるのか」という兵士の苦しい訴えの言葉もセリフとなっている。


 老兵については、1980年代に台湾ニューシネマの若手監督と目されていた李佑寧(リー・ヨウニン)が老兵を主人公にした映画を2本撮っている。いずれもニュースで話題を呼んだ出来事に脚色をくわえたもので、『老兵の春(老莫的第二個春天 モーおじさんの第二の春)』(1984年)と『老柯的最後一個秋天(クーおじさんの最後の秋)』(1989年)だ。前者は軍隊を退役した老兵が、結納金を用意して若い先住民族の娘を紹介してもらい、結婚する。さまざまな行き違いをなんとか乗り越え、二人は幸せな家庭を築いていく。息子も生まれて、老兵は大陸へ帰る船賃を計算しながら、家族で故郷に帰る夢を語る。制作当時はまだ戒厳令下で中国大陸への渡航が自由化される前のことだ。一方で後者は、軍隊を退役してタクシー運転手になった老兵が、小さいときから可愛がっていた近所の娘の苦境を見かねて国営の土地銀行で銀行強盗をしようとする話だ。「俺は一生を国にささげたが、国は何もしてくれなかった。国家の金は俺の金だ」のセリフが当時共感を呼んだが、この映画は映画を統括する役所・新聞局電影処からは歓迎されなかった。


 もうひとつドキュメンタリー映画でも、見落とせない作品がある。金門島を舞台にした『単打双不打(奇数日は攻撃日、偶数日は休戦日)』(1994年 董振良監督)で、中国が発表した、隔日砲撃の方針がそのままタイトルとされている。戒厳令解除後は台湾では社会問題を鋭く突きつけるドキュメンタリーの佳作が次々に生まれたが、これはそのひとつだ。董振良(ドン・ジェンリャン)監督は金門島出身で、金門島の人々に自分たちの体験を演じさせた部分を挿入して、住民から見た金門島の現実を生々しく描き出した。『軍中楽園』で描かれているのは、1969年当時でも砲撃は続き、兵士は逃げまどい、住民たちも防空壕に避難するようすだ。このありさまを最初に訴えたのが『単打双不打』で、“大陸反攻”が国是とされた5,60年代に、金門島ありさまは政府や軍が宣伝した“神聖なる戦役”“名誉の戦役”などとは遠く隔たっていたことを訴えていた。


 ニウ・チェンザー監督についても触れておきたい。彼は原籍は北京で、1966年台北で生まれて永春街にあった眷村(家族村)で育った。台湾にわたってきた外省人の二世ということになる。眷村についても説明しておきたい。1949年国共内戦に敗れて台湾にわたった国民党軍は一般庶民も含めて約150万人と言われる。当時の台湾の人口が約600万だからその人口急増のさまは、容易に想像がつく。軍としては少なくとも軍人に対しては住居もないまま放っておくわけにいかず、俄か造りの住宅を建設してそこを眷村とした。その数は台湾全島で530か所にのぼったという。眷村の住人は社会的階層や身分はさまざまだったというが外省人が集まって暮らしていたわけで、本省人から見れば内部をうかがい知ることができない外国のようなものであった。眷村で育ってのちに芸術、政治、学問などの分野で活躍するようになった人は多い。李佑寧、ホウシャオシエンん作品の脚本家であり小説家でもある朱天文なども眷村育ちだから、台湾で一時期、独特の文化を醸成した場所ともいえるかもしれない。


 なかでもニウチェンザーの場合は、原籍が北京だから、戦後台湾で国語とされた、いわゆる北京語、正しい中国語をしゃべる一家だったことになる。父親はニウチェンザーが子供のころに倒れて寝たきりだったというが、母親および母方の祖母は台北師範大学語言センターで中国語を教えた。外省人の社会で育ったわけだから、台湾人とはだいぶ違った体験をしていると思われる。李佑寧もそうだが、老兵を身近に見てきたのが彼の作品作りのモチーフとなっている。ニウチェンザーの場合も、中国大陸や北京への思いが強いようだ。『軍中楽園』にもラオジャン役の陳建斌をはじめ多くの中国人俳優を起用しているが、言葉の訛りや仕草などに、台湾人俳優では演じられないリアリティを求めたためだと思われる。


 そのぶん『軍中楽園』ではラオジャンの背景や感情はこまやかに深く描かれている。それに比して娼婦の背景や感情は、やや浅い描写になっているのは否めない事実だ。本省人から見れば、中国大陸から来た兵隊たちのために台湾人女性が娼婦として送り込まれたわけで、そのことに対する反発は強い。

フィリピン  子供と年寄りにやさしい国 

 


 8月初旬に、10日足らずだがフィリピンを旅した。
 こんな短期間の旅で、行った先のことを語るなど、おこがましいことだ。そうは思うのだが、7700もの島から成るこの国を島から島へと移動しつつ感じたことがあるので、それを書いてみたい。というのも、ここはほんとうに子供と年寄りにやさしいところだと感じたからだ。


 フィリピンの島々を行き来するのは、船か飛行機だ。船旅はなかなかいいと勧めてくれた人もいたが、なにしろ時間がかかりすぎるので、やはり移動は飛行機を選んだ。たくさんの島があるから、人々は日常の交通手段として飛行機を使っているのだろう。国内便のセスナ機に乗る飛行場は、まるで大型バスターミナルのような雰囲気だ。体育館みたいな感じの広い待合室の前方には改札口さながらのゲートがあり、そこを通ると広い飛行場を背景に何機かのセスナ機が並んでいる。ゲートから飛行機まで歩き、乗降口にかけてある梯子を上って飛行機に乗るというわけだ。 


 まずマニラからレイテ島へ向かうことになった。さすがマニラだけあって、発着便数も搭乗者数も非常に多い。そのうえマニラの交通渋滞はひどいから、私もそうだが皆早めに空港に向かうことになる。それで必然的に待ち時間も長くなる。同じような事情を抱えた人々で待合室は混みあっていて、よくも皆いらいらもせずに待っているものだと感心した。


 やっと空席をみつけてなんとか腰をおろすと、すぐそばの席で、3歳ぐらいの男の子がすさまじい声で泣き叫びだした。若い小柄な母親は辛抱強くなだめているが、なぜか坊やは泣きわめき続ける。私は母親が気の毒になって、バッグから飴玉を探し出して近づいた。見ず知らずのヘンなおばさんが、見たこともない日本の飴玉をもって声をかけたら、坊やはびっくりして泣きやんでくれるのではと期待したのだ。だが全然効果はなかった。仕方なく飴玉は母親に手渡し、私は気にしてないからねとサインを送って自分の席に戻った。私の娘も小さいころは聞かん坊で、電車の中でも店の中でもわけもわからず癇癪を起し、身のすくむ思いをよくしたものだ。考えてみればあの癇癪も、喋れるようになったらウソのようになくなったが。


 泣きわめく坊やへの私の反応が珍しかったのかもしれない。隣の女性が話しかけてきた。「どこから来たの? どこへ行くの?」からはじまり、坊やが泣いている理由を説明してくれた。待合室の小さい売店で玩具の銃を目にして、それが欲しいとせがんでいるのだという。他の人たちはいきさつを知ってか知らずか、坊やがそのうちあきらめるだろうと静観しているようすだ。あらためて見まわすと、母親に非難の目を向ける人はほとんどいないようで、母親の方も驚くほど冷静に忍耐強く子供をなだめ続けている。


 すると近くの男性が母親に、荷物を見ていてあげるからひとまわりしておいで、とでも言ったらしい。しばらくして戻ってくると、どういう風の吹き回しか、坊やは銃を買ってもらった様子もないのにケロッと泣きやんでいた。そして飛行機の出発のアナウンスを機に母親が立ちあがると、坊やは激しい泣き声の主とは思えぬはにかみ顔で、私にバイバイと手を振って飛行機へと向かっていった。この蒸し暑い不快な待合室で、あの泣きわめく声に嫌な顔ひとつ見せない人々を、私は不思議な思いで見渡した。こういうふうだったら、日本での子育てだって数倍楽なはずだ。


 さて私の搭乗時間になり、ゲートを出ると日傘用に赤い傘を手渡され20メートルほど離れたセスナ機に向かった。すると若い女性が私に近寄り、「お手伝いが必要ですか?」と声をかけた。なんのことかわからずとっさに「大丈夫です」と答えた。飛行機の梯子を登りながら、ああそうかこれを登るのに手を貸してあげようという意味だったのだと気づいた。私は日頃から運動を心掛けていて、ジョギングで3キロなら軽くはしれるのが秘かな自慢だ。それでも見かけは間違いなく老人なはずだが、日本ではこんな声をかけられたことは一度もない。そのあとも、パラワン島のコロンというところで舟に乗って美しい海を巡ったが、ガイド役の30代の男性も助手の若い青年たちも、さりげなくタイミングよく手を貸してくれた。静かな海を夢見心地で眺めながら、景色もさることながら人々の温かさが心に沁みた。


 つぎはこちらのヘマから起きたことなのだが、驚くような親切に触れた。レイテ島からセブ島に向かう飛行機の時間を勘違いして、ホテルを出たのがぎりぎりの時間だった。車が走り出したとたんに電話が鳴った。「もう全員搭乗がすみました。あなたも乗るなら、あと10分で搭乗手続きをすませてください」とのこと。運転手には気の毒なほど猛スピードで走ってもらい、空港に着くと警備員が3人待ち構えていた。そして私の荷物を全て抱えて搭乗カウンターにダッシュ。荷物検査にダッシュ。そして搭乗口を出ると、「はい、あとあそこまで全力疾走」とばかりに、出発直前のセスナ機を指さした。飛行機に向かって走る私たちに、さっき搭乗手続きをしてくれたスタッフが裏口から出てきて、満面の笑顔で手を振り、「よかったねえ、いってらっしゃい」と見送ってくれた。あきらかにこちらのミスでハラハラさせ、余分な手間をかけさせたに違いないのに、あんな笑顔で送りだしてくれる人が、ほかのどこにいるだろう。


 そして最終日。翌日の日本向けの飛行機が朝早く出発するので、空港近くに宿をとった。早めに夕飯を食べて早めに寝ようと、近くのショッピングモールへでかけた。おいしい食事をすませて宿に戻ろうとすると、交差点を一回曲がっただけの単純な道筋だったはずなのに、迷ってしまった。仕方なく何かの制服を着たおじさんに道を尋ねた。すると「これに乗りなさい」と、オートバイにサイドカーをつけたトライシクルよりもう少し乗り心地のよさそうなカートを指さした。これに乗るほど遠くはないはずだが、とは思ったが言われるままに乗り込むと、宿の真ん前でぴたっと止まってくれた。料金を聞くと、「いらない」とのこと。なんでも、このカートは老人および妊婦向けの無料サービスなのだそうだ。驚いた。日本では私と同年輩の人たちは競って若く見られるよう努力をし、その反面で年相応と思われる気遣いはあまりされたことはない。


 翌日早朝、空港のターミナル入り口で厳重なチェックを受ける。建物内には搭乗券を持つ人しか入れないので、見送りの人ともここで別れることになる。前夜から天気予報をチェックしていたが、東京には到着時間ごろ強力な台風が接近するとのことだった。だからそもそも飛行機は出るのかと危ぶみ、飛行機がキャンセルになった場合、あるいは日本到着後の交通トラブルにそなえて、いくつかの心づもりもしていた。そんなふうにちょっと緊張の心持で空港の男性スタッフをつかまえて「×××便のカウンターはどこでしょう」と訊くと、彼は「あなたは高齢者ですか?」と訊き返し、こちらの返事を待たずに高齢者専用カウンターを教えてくれた。おかげでほかのカウンター前につらなるいくつもの長い行列を尻目に、私はまったく待つこともなく手続きをすませた。


 さてもうひとつおまけだ。空港のターミナル入り口まで送ってくれた娘に、飛行機が無事出発することを伝えなければならない。娘は進行中のプロジェクトが仕上げ段階で忙しいはずだが、私の状況に合わせて今日の日程を変更してもいい、と言ってくれていたからだ。私は今回の旅ではSIMなしスマホを持っていて、Wifiのある場所でスカイプ通話を利用していた。ところが空港のあちこちで娘へスカイプ通話を試みたが、接続が弱くてつながらない。公衆電話をみつけたがテレホンカードが必要で、テレホンカードの売り場は近くにはないという。さあ困った。余計な心配はかけたくない。そこで搭乗口近くの椅子に腰かけていたフィリピン人女性に事情を話し、「スマホを貸してくれないか」と頼んでみた。


 その女性は気軽に承知し、娘の番号を打ち込んで私に話せとうながした。ところが移動中なのか娘は出ない。するとその女性は「じゃあメッセージを送ってあげる」と、読み上げつつ打ち込んでくれた。「あなたのお母さんが、私に連絡してくれと頼んでいます。お母さんはまもなく無事に東京へ出発します。心配しないで、とのことです」と。まもなく娘から「ありがとう」と返信があり、彼女は「確かに伝わったわよ。よかったね」と喜んでくれた。
 フィリピンの人々の、やさしさに、そしておだやかさに、しばしば驚かされた旅の9日間だった。もっとこの国を知りたい、と心から思う。

梅の恵み 夏の哀しみ

 

 


 台風がらみの雨がつづいて、今日は久しぶりの快晴。午後は暑かったのでずっと本を読んだり手仕事をしたりして過ごした。いま読んでいるのはイアン・マキューアン著『愛の続き』、たしか3回目だ。夕方4時半をまわったころ、少しは体を動かそうとジョギングにでかけた。すぐ近くの神社や城跡の木陰を選んで走ってみたが、まだ日は高くやはり暑い。そこでジョギングはやめることにして帰りかけたが、ふと思いついて家を通り過ぎ畑に向かった。梅がもうそろそろ終わるころだ。


 梅の木の下には、丸々とした黄色い実がたくさん落ちている。それでも木を見上げればまだ残っている実も多い。手が届くあたりを手早く摘んだだけで、バッグはたちまち持ち重りするほどになった。欲張らずに切り上げて帰ることにした。夕方は蚊が多いというから、虫刺されでひどい目に遭ったばかりだし、用心しようというわけだ。10日ほど前に虫にさされた翌朝、顔の左半分が腫れあがってしまったのだが、その後ハーブで作られた防虫スプレイを手に入れた。スプレイボトルを玄関に置いて、外出前には柑橘系の香りを吹きかけることにしているが、虫はなかなか油断がならない。つい先日も手袋のうえから手の甲を刺されてしまった。考えてみれば、手の甲あたりはスプレイが行き届かないところかも知れない。


 畑を通り抜けながら、2,3日前に植えたモロヘイヤの苗のようすを見てみた。すると、4本植えたうちの元気のよい1本がつぶされている。苗の周りが微かに丸くへこんでいるところを見ると、誰かが、というより猫かまたはハクビシンか何かが、ここに横たわったらしい。植える前に庭のコンポストから堆肥を運び出してここに埋めた。我が家の堆肥はほとんど匂わない、というより堆肥らしいいい匂いがする。人間は気づかなくても、彼らにしてみればその匂いに引き寄せられるのだろうか。ぐにゃっとした苗が生き返るかどうかはわからないが、土をかき寄せてまっすぐに起こしてから、また何者かが寝転んだりしないように棒をたてた。


 家に帰ってから梅を測ると1.5キロ余りあった。ざっと水で洗い、しばらく水につけておく。もうだいぶ熟れているからあく抜きの必要はないかもしれないが、念のためというわけだ。あく抜きをうまくやらないと渋みが残ると、先日友人がせっかく作ったジャムの不出来を嘆いていた。5,6時間水につけたあと梅をざるにあげ、竹串でヘタを取る。電気炊飯器に梅を入れると蓋がやっと閉まるくらいいっぱいになった。1週間ほど前に作った梅ジュースと梅ジャムの甘さがちょうどよかったので、砂糖の割合は先回と同じにしようと計算してみたら370グラムだ。梅に甜菜糖とほんの少しの水をくわえて保温のスイッチを押す。これだけで明朝には梅ジュースができ、残りの梅をタネを取り除いて煮詰めれば梅ジャムもできる。酸味のあるジュースとジャムは、暑い盛りには舌に心地よい。


 暑い時期には、こんなふうに時間を過ごすのがいい。我が家では昨年暮れごろに、庭の大木を20本ほど伐採した。もともと自然林の延長のような庭だから、伐採した後も心配したほどの変化はなかった。けれど夏に向かうと、西側の深い木立がなくなったせいで午後の日差しの暑さが不安材料になってきた。昨年までは冷房も扇風機もなしで、暑さを嘆くことなどついぞなかったのだが。そんなわけで近ごろは、夏をいかに快適に過ごすかをしきりに考える。


 暑い日は、午後になると涼しい居間や台所に移動し、手仕事に熱中する。すると時間のたつのを忘れて、ふと気がつくと夕飯どきだ。しかも手仕事というのは、費やした時間に応じて、具体的なものを生み出してくれる。だから満足や楽しみも増すものとばかり思っていた。ところがそうはいかないのは、いったいなぜなのだろう。あちこち工夫を凝らして仕上げたワンピース、梅漬けの壺、ジャムの瓶詰といった、自分が作り出したものを目の前にならべてみる。それはそれでうれしいのだが、心の底に沸いてくるのは、そこはかとない哀しみだ。


 思えば子供のころから、夏の日盛りには気の遠くなりそうな解放感と同時に、いつも寂しさや哀しみが心に貼りついていた。庭で姉妹や従姉たちと精一杯はしゃぎまわっていたときも、川遊びや山遊びに父がつれだしてくれたときも、私は楽しんでいるふりをしていただけで、心の奥ではひそかに寂しさや哀しみをかみしめていたような気がする。