梅の恵み 夏の哀しみ

 

 


 台風がらみの雨がつづいて、今日は久しぶりの快晴。午後は暑かったのでずっと本を読んだり手仕事をしたりして過ごした。いま読んでいるのはイアン・マキューアン著『愛の続き』、たしか3回目だ。夕方4時半をまわったころ、少しは体を動かそうとジョギングにでかけた。すぐ近くの神社や城跡の木陰を選んで走ってみたが、まだ日は高くやはり暑い。そこでジョギングはやめることにして帰りかけたが、ふと思いついて家を通り過ぎ畑に向かった。梅がもうそろそろ終わるころだ。


 梅の木の下には、丸々とした黄色い実がたくさん落ちている。それでも木を見上げればまだ残っている実も多い。手が届くあたりを手早く摘んだだけで、バッグはたちまち持ち重りするほどになった。欲張らずに切り上げて帰ることにした。夕方は蚊が多いというから、虫刺されでひどい目に遭ったばかりだし、用心しようというわけだ。10日ほど前に虫にさされた翌朝、顔の左半分が腫れあがってしまったのだが、その後ハーブで作られた防虫スプレイを手に入れた。スプレイボトルを玄関に置いて、外出前には柑橘系の香りを吹きかけることにしているが、虫はなかなか油断がならない。つい先日も手袋のうえから手の甲を刺されてしまった。考えてみれば、手の甲あたりはスプレイが行き届かないところかも知れない。


 畑を通り抜けながら、2,3日前に植えたモロヘイヤの苗のようすを見てみた。すると、4本植えたうちの元気のよい1本がつぶされている。苗の周りが微かに丸くへこんでいるところを見ると、誰かが、というより猫かまたはハクビシンか何かが、ここに横たわったらしい。植える前に庭のコンポストから堆肥を運び出してここに埋めた。我が家の堆肥はほとんど匂わない、というより堆肥らしいいい匂いがする。人間は気づかなくても、彼らにしてみればその匂いに引き寄せられるのだろうか。ぐにゃっとした苗が生き返るかどうかはわからないが、土をかき寄せてまっすぐに起こしてから、また何者かが寝転んだりしないように棒をたてた。


 家に帰ってから梅を測ると1.5キロ余りあった。ざっと水で洗い、しばらく水につけておく。もうだいぶ熟れているからあく抜きの必要はないかもしれないが、念のためというわけだ。あく抜きをうまくやらないと渋みが残ると、先日友人がせっかく作ったジャムの不出来を嘆いていた。5,6時間水につけたあと梅をざるにあげ、竹串でヘタを取る。電気炊飯器に梅を入れると蓋がやっと閉まるくらいいっぱいになった。1週間ほど前に作った梅ジュースと梅ジャムの甘さがちょうどよかったので、砂糖の割合は先回と同じにしようと計算してみたら370グラムだ。梅に甜菜糖とほんの少しの水をくわえて保温のスイッチを押す。これだけで明朝には梅ジュースができ、残りの梅をタネを取り除いて煮詰めれば梅ジャムもできる。酸味のあるジュースとジャムは、暑い盛りには舌に心地よい。


 暑い時期には、こんなふうに時間を過ごすのがいい。我が家では昨年暮れごろに、庭の大木を20本ほど伐採した。もともと自然林の延長のような庭だから、伐採した後も心配したほどの変化はなかった。けれど夏に向かうと、西側の深い木立がなくなったせいで午後の日差しの暑さが不安材料になってきた。昨年までは冷房も扇風機もなしで、暑さを嘆くことなどついぞなかったのだが。そんなわけで近ごろは、夏をいかに快適に過ごすかをしきりに考える。


 暑い日は、午後になると涼しい居間や台所に移動し、手仕事に熱中する。すると時間のたつのを忘れて、ふと気がつくと夕飯どきだ。しかも手仕事というのは、費やした時間に応じて、具体的なものを生み出してくれる。だから満足や楽しみも増すものとばかり思っていた。ところがそうはいかないのは、いったいなぜなのだろう。あちこち工夫を凝らして仕上げたワンピース、梅漬けの壺、ジャムの瓶詰といった、自分が作り出したものを目の前にならべてみる。それはそれでうれしいのだが、心の底に沸いてくるのは、そこはかとない哀しみだ。


 思えば子供のころから、夏の日盛りには気の遠くなりそうな解放感と同時に、いつも寂しさや哀しみが心に貼りついていた。庭で姉妹や従姉たちと精一杯はしゃぎまわっていたときも、川遊びや山遊びに父がつれだしてくれたときも、私は楽しんでいるふりをしていただけで、心の奥ではひそかに寂しさや哀しみをかみしめていたような気がする。

伏兵あらわる

 


有機農法の講演会を聞いてから、私は異様なほどよく働いた。早朝2時間余りの畑仕事。小梅を2キロ漬けた。1キロは塩と砂糖を使って、もう1キロは塩だけで。塩は少なめにしたが順調に梅酢が梅を覆ったので、紫蘇を入れて暗い場所にしまい込んだ。そうだ醤油麹と塩麹も作った。煮干しをコーヒーミルでくだいて粉末にして、味噌汁とともに煮干しの骨まで食べることにした。などなど。みな、有機農法の講演会でさかんに勧められた食生活に近づくための工夫だ。


ところが、早朝の畑仕事が佳境に入りつつあった3日目に、思わぬ伏兵があらわれた。畑から戻って朝食を食べているとき、左のこめかみを虫に刺されているのに気づいた。10日ほど前には右こめかみを刺されていて、それは1週間ほどで腫れが引いた。だからこんどもそのはずであった。午後はヨガ教室に行き、ほどよく疲れて早めに就寝。

 

ところが翌日早朝に目覚めると、なんだか変だ。左目が開かない。鏡を見て驚いた。左こめかみの腫れが左目周辺一帯にまでおよび、左瞼が腫れ上がって目をふさいでいる。仕方なく医者に行って、アレルギー症状を抑える飲み薬と、虫刺されやかぶれに効くという軟膏をもらってきた。これで2,3日ようすを見て、腫れがひどくなりそうなら週明けまで持ち越さずにもう一度来院するようにとのこと。もしかすると私が思っているよりも重症なのだろうか。


あーあ、私の人生って、なんだかいつもこんなふうだったような気がする。おもしろい、と飛びついてたちまち夢中になる。すると冷や水を浴びせられる。けれど、それでも続けてきたことがいまとなればいくつもある。それにしても今回は、冷や水ぶっかけられるのが早すぎはしないか。いったいどうなることだろう。


目下の対策は、虫よけの薬効を発散する腕時計タイプの器具を、必ずつけること。早朝は肌寒いほどだから虫も出ないだろうと侮ったのがよくなかった。そして私は嫌いなのだが、登山者などがよく使うというスプレータイプの防虫剤も、必要とあれば併用すること。これから暑くなるから虫刺され対策は、いっそう重要になるはずだ。


そうやって、私が心にひそかに描いている我が畑の図を、やはり少しでも実現に近づけたい。雑草が地面を青々と覆っているのに、おいしい野菜が獲れるという、あれだ。しかし焦るのはやめよう。まずは瞼の腫れが引くのを待たなければ。だいたいこれでは、見たい映画も見に行けないではないか。たしか「ロンドン、人生はじめます」(ジョエル・ホプキンス監督)の上映が、相生座ロキシーで今日までだったはずなのだ。あれは見たかったのだが。

有機農業、勉強会

 


上田に行ったときに、偶然に有機農業の講演会のチラシを手に入れた。最近はチラシ類もずいぶん色とりどりだが、このチラシは水色の紙に墨一色、しかも昔懐かしい手書きで楽しいイラストが添えられている。一枚しか残っていないチラシを手に取って、まず講演会の場所と時間を確認する。私が行かれないなら、このチラシは他の人にゆずらなければ、と大事にする気持ちが自然に生まれている。幸い行かれそうなのでチラシを頂き、さらに友だちを一人誘った。彼女は子供時代から農業になじんでいる、私の指南役だ。


演題は「雑草も害虫も病原菌も敵じゃなかった~野菜も人も元気になる方法」。やったぜ、という感じだ。私もこの精神で畑をやりたい。いややっているがうまくいかない。これで知識を蓄え、周囲の白い目を跳ね返してやりたい。講師は私には未知の吉田俊道農学博士。大学退官後は長崎で「菌ちゃんファーム」という農場を運営し、有機農法を実践し、しかもかなりの収益もあげているそうだ。


私の畑歴は、足掛け5,6年といったところか。せっかく自分で作るからには農薬や化学肥料は使わない、と頑張ってはみても、知識・経験・体力・忍耐力と全部不足で、実は畑はかなり悲惨なありさまだ。いくらなんでも雑草生え放題にしておくわけにはいかないから、畑のかなりの部分に香菜(シャンツァイ)を繁茂させている。別名パクチと言われるこの野菜は、香りが独特なせいで好悪がはっきり分かれるが、私は大好きだ。もともと種をくれた台南に住む友人は、勝手に私の畑を想像して、毎日新鮮な香菜が食べられるなんて羨ましいと言っている。


というわけで、ただの雑草だらけではないものの、周囲の勤勉な畑人から見れば、やはりだらしない畑に見えるのは否めないだろう。この5,6年、私なりに努力はした。ある年には水ナスが大木のように育って一夏の恵みをくれた。またある年はミニトマトが大豊作で、もったいないのでケチャップを大量に作った。だがこれらは偶然そうなっただけで、自分が望んでその通りに行った例は、ほぼ皆無だ。このあたりでは庭先などでも、皆りっぱにキウリやナスを作っているが、そういう夏の定番野菜に関しては、私はうまく行ったためしがない。


さて、講演会当日。開演より40分も前に到着したのだが、驚いたことにすでに会場はもう活気がただよっていた。上田郊外の塩田公民館という立派な建物の大ホールは、ならべてあった椅子をさらに増やして、180人の聴衆で埋まった。男女比は半々ぐらいだろうか、幼い子供を連れた若い人からお年寄りまで、なんとか役に立つ知恵や知識を仕入れたくて、うずうずしているのがよく分かる。たぶん私を除いて皆それなりの腕前なのだろうが、であればもっともっといろんなことを知りたくなるのが畑仕事だ。


講師の吉田俊道先生は、サービス精神満点の楽しい話を聞かせてくれた。豊富な知識と有機農法実践者の経験とで、深くうなずきたくなる話題の連続だ。聴衆とのやり取りも、それぞれの経験に裏打ちされていて興味深かった。私にとって新鮮だったのは、虫は弱った野菜につく、ということ。野菜を丈夫にすることが、虫をはねのける最大のコツなのだ。それに虫にも菌にも雑草にも、それぞれの役割があるのだから敵視する必要はないこと。なんだか目の前が明るくなっていく。よし、いい土をつくって、青々と雑草が地面を覆っている畑で、おいしい野菜を作ってやろうと元気が出た。おいしい野菜を食べておなかの中まで健康になったら、どんなウンチが出るか、なんていう話もあった。私は初めて聞いたが、これは、考えてみればかなり大切な知識ではないか。


講演を聞いた翌日から、何が変わったか。早朝約2時間の畑仕事をするようになった、と言ってもまだ3日目にすぎないが。いろんな話の中から、私にできることをみつけて実行する。すると野菜がおいしくなる。健康になる。今年の夏は早朝2時間の畑仕事、次は昼までの書斎仕事、午後は寝転がって本を読んだり庭仕事をしたり、漬物などつくったりもしようかな。食にじかにかかわること、自分にも地球の未来にもよいことを実践することは、本当に気持ちを明るくする。あの有機農法講演会の、会場全体の明るい雰囲気は、あそこに集まった人々の気持ちをそのまま反映していたのだろうと、いまさらながら感嘆している。

死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの


 永山則夫のことをもっと知りたくなって、同じ著者の本をもう一冊読んだ。『死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの』堀川恵子著だ。


 先日取り上げた石川義博医師による精神鑑定書は、永山の生い立ちを精緻に追っていき、彼がなぜ4人を殺して連続射殺魔と呼ばれるに至ったかを探ったものだ。当時の裁判官がのちに語ったところによれば、石川鑑定と呼ばれるこの鑑定書は非常に優れたものだと思ったそうだ。しかしながら永山が事件当時19歳という未成年とはいえ、4人殺害という犯罪の重大さを鑑みて死刑にしないわけにはいかなかったのだ、という。1979年、永山に死刑判決が下された。永山は30歳になっていた。弁護団は、被告の完全責任能力を認めたのは事実誤認として、東京高等裁判所に対して控訴手続きをとった。


 死刑判決が下された後、永山は獄中で結婚した。相手は新垣和美。沖縄出身で、その後は母とその再婚相手の元でアメリカで暮らしていた。彼女はふとした偶然から永山則夫の著書「無知の涙」を読み、強い共感をおぼえて永山と文通を続けていた。彼女もやはり子供時代に母親に捨てられたと感じた経験があり、永山の著書によって救われたという。彼女の決心は固く、永山からは止められたにもかかわらず一人で来日を決めた。親もアメリカの永住権も捨てて、永山とともに生きる覚悟だった。来日以来、彼女は毎日永山に面会して会話を重ね、永山と結婚した。さらに、永山が射殺した人の遺族を訪問して謝罪をし、彼らの思いに耳を傾け、「無知の涙」の印税を受け取ってもらおうと努力した。


 親の愛に飢えて育った永山にとって、自分を愛してくれる女性の存在は大きかった。死を待つばかりだった永山は、和美と生きていくことを考え始めた。永山裁判では弁護団は何回も解任就任を繰り返しているが、死刑判決後の控訴手続きのあと第4次弁護団は解散。一審の途中から弁護にあたっていた鈴木淳二弁護士、弁護士二年目の大谷恭子弁護士が就任していた。彼らの努力によって、永山則夫はそれまでの法廷で闘う姿勢を変え、真摯に自分の罪状やその後の思いを語るようになった。将来の夢として、もしできるなら子供たち同士が助け合うような塾を開きたいと述べたという。1981年、東京高裁の船田三雄裁判長は一審の死刑判決を破棄、無期懲役の判決を下した。その根底には石川鑑定の存在があった。劣悪な環境で幼少時を過ごさざるを得なかった被告の事情を、深く斟酌したものといえる。


 しかし永山に無期懲役の判決を下したいわゆる船田判決は、マスコミの激しいバッシングにさらされることになった。死刑制度が存在する以上、永山を死刑にしない理由はない、という論調が主流だった。東京高等検察庁は、東京高裁の判決は判例違反だとして最高裁判所に上告した。


 思えば19歳の連続射殺魔永山則夫にとって、獄中ははじめての安住の場であったのかもしれない。食べるに困らず、暴力にさらされることなく眠れる場を得て、永山は猛然と勉強を始め多数の書物を読破した。マルクス主義に傾倒して、自分たちのような社会の底辺で貧困にあえぐものを踏みつけにして成り立っている社会に、怒りを向けるようになった。裁判は、そのような過酷な状況で育って罪を犯した少年を、社会がどう裁くかこそが問われていた。貧困を生み出している社会の責任を重視すれば、死刑判決は下せなくなる。しかし一方で、同じような状況で育っても、犯罪への道はたどらずに健全な社会生活を送っているものも多い、との世論も依然として根強く存在した。永山に死刑判決を下さなければ、社会的に著しい不公平が生じるとの声も大きかった。


 死刑か無期懲役か、つまり国家に殺されるのか、または生かされて被害者への謝罪をしながら生きるのか。このふたつのあいだで、翻弄されながら永山は獄中での日々を送った。1983年、最高裁は原判決の破棄と東京高裁への差し戻し判決を宣告。これは事実上死刑宣告を意味していた。


 これを知った永山は、大谷恭子弁護士にむかって「生きる気にさせておいてから、殺すのか」と言ったという。逮捕時から死刑を覚悟していたばかりか自殺未遂を繰り返していた永山が、読書や創作を重ね、結婚もし、か細い光を手繰り寄せるようにかすかな生の希望をつかもうとしたとき、その望みが断ち切られた。永山は離婚を口にするようになり、4年間の結婚生活を終えた。


 永山はその後も一人で獄中で創作を重ね、著書を発表し続けた。1987年、東京高裁は控訴を棄却。1990年、最高裁で永山の死刑が確定した。永山は41歳だった。彼は死刑執行を引き延ばすための再審請求は、一度も行わなかった。そして死の直前までたった一人獄房で書き続けた。1997年8月1日、東京拘置所内で永山則夫の死刑が執行された。永山則夫48歳。このとき執筆中だった小説のタイトルは「華」。いつものように机に向かっていたとき、突然刑務官が現れて処刑のために連れ出されたのだろう。原稿は、文章の途中でぷつりと途切れていたという。


 死刑が執行されたその日の朝、隣の房にいた大道寺将司死刑囚は、永山則夫があげたと思われる絶叫を聞いている。大道寺は「東アジア反日武装戦線」に属して連続企業爆破事件を起こした。また元刑務官・坂本敏夫は、永山の死刑執行から20年後に書いた手記に、永山の最期のようすを記している。それによれば、永山は「殺されてなるものか」と力を振り絞って、巨漢の刑務官数人の制圧を振り切ろうとした。そのせいで全身に無数の打撲傷や擦過傷を負い、無残な姿で処刑されたという。生涯孤立無援を貫き、知識を得るにしたがって激しく社会と対峙するようになった永山を象徴するような最期といえるかもしれない。


 ところでここに掲げた「死刑の基準」という本は、永山裁判のあと死刑判決を下す際に依拠されることの多くなったいわゆる「永山基準」について詳述したものだ。永山裁判が無期懲役か死刑かで争われたように、被告本人にとってはこの分かれ目はとてつもなく大きい。永山基準というのは、最高裁が二審の無期懲役判決を棄却して事実上の死刑宣告をくだしたときに示された判断基準を指している。最高裁は、極刑以外に選択の余地がないときにだけ「やむを得ず」死刑が適用されるという姿勢を保ちつつも、死刑を適用するかどうかの基準として、次の9項目を挙げた。(1)犯罪の性質、(2)動機、計画性など、(3)犯行態様、執拗(しつよう)さ・残虐性など、(4)結果の重大さ、特に殺害被害者数、(5)遺族の被害感情、(6)社会的影響、(7)犯人の年齢、犯行時に未成年など、(8)前科、(9)犯行後の情状、である。


 ところが近年とくに、上記の9項目に適応すれば死刑判決を下してもいいかのような曲解ともいえる風潮が出てきている。それには、著者はもちろん多くの人が危惧を抱いている。まるで犯罪者に対して社会全体の報復感情をぶつけるかのような動きが、目立っているのだ。永山則夫に関するこの2冊の書物だけでも明らかなように、永山の事件に至る事情というのは複雑を極め、犯行後の行動にもまた人々の想像を大きく超えるものがあった。そしてそれは多かれ少なかれすべての犯罪者に当てはまるのではないだろうか。しかも現在死刑判決が下されている事件のなかには、たとえば和歌山毒物カレー事件のように冤罪を疑われているものが少なくない。言うまでもなく、死刑とは国家による殺人行為であり、一人の人間の未来を永遠に奪ってしまうものだ。永山に無期懲役判決が下されたときに、死刑制度廃止の論議が一時的な高まりを見せた。やはりこれは早急に実現すべき課題ではないか。永山の足跡をいくらかなりと知っただけでも、国家権力による殺人はなくすべきだと痛切に思う。

永山則夫 封印された鑑定記録


 年末から年始にかけて「永山則夫 封印された鑑定記録」堀川恵子著を読んだ。自分がうわべしか知らなかったことに気づかされた、ずしりと重い本であった。


 永山則夫が4件の連続射殺事件を起こし逮捕されたのは、1968年から69年にかけてのことだという。事件および逮捕当時、彼は19歳だった。私は彼よりいくつか年長だが、彼のニュースは強く印象に残っている。その後も彼に関する情報には関心を寄せていたが、本質的なところは何も知らずにいたと、本書を読んで痛切に思った。


 この本に渋谷のフルーツパーラー西村が出てくる。永山則夫が中学を卒業し、盗んだTシャツなどで身支度をして上京し、誰も手助けをしてくれないなかで住み込みで働き始めたのが、この西村だという。渋谷は、私にとっても初めて知った都会であった。西村のガラス張りの明るい店内のようすが記憶にある。あのころ、あの店のバックヤードに永山則夫がいたのかもしれない。小柄な体に心細さを抑え込んで。


 永山則夫は、非常につらい子供時代を過ごしている。網走で父親が博打の果てに失踪。母親は生きていくためとは言え、17歳の娘と2歳の幼児および孫の3人だけをつれて青森へ行ってしまった。他の4人の子どもたちは極寒の網走に放置された。4歳の永山則夫、14歳の姉、12歳と10歳の兄である。食糧も金もない子どもたちだけの暮らしで、春まで生き延びたのが奇跡と言えるほどの過酷さであった。


 母のもとに引き取られてからも、永山則夫の苦境は続く。次兄の暴力、小中学校ともほとんど不登校。中卒で上京してからも職を転々として、半年以上続いた職はない。逃げるように故郷を後にしたものの、15歳の彼はあまりに非力、あまりにも孤立無援であった。


 逮捕後拘留されるとすぐに、永山則夫は「無知の涙」の執筆を開始した。半年余り後には合同出版から刊行され大きな話題を呼んだ。その間も彼は強い自殺衝動にかられ続け、何回もの自殺未遂をしている。一方で、精神科医・新井尚賢技官によって永山則夫の精神鑑定が行われている。


 ところがその約2年後、永山の弁護団から精神科医・石川義博のもとに再度の精神鑑定の依頼が届いた。石川は当時38歳、東京大学医学部精神医学教室を経て、ロンドンで先端の精神医療を学び帰国してまもないころだった。難しい事件であること、すでに一度鑑定が行われていることなどの理由でためらいはあったが、結局石川は鑑定を引き受けた。その大きい理由のひとつは、新井鑑定では永山則夫の生い立ちがごく簡単にしか触れられていないことだった。石川ははじめから、永山の悲惨な幼少期の出来事をじっくり聞き取ろうとの覚悟でこの仕事に臨んだ。永山の親族に精神を病んだ者が数名いるが、それと事件との関連も解き明かさなくてはならない。石川医師の面談は、精神鑑定の常識を離れて、永山自身が語りだすのを待つという方法がとられた。


 石川医師による永山則夫の第二次精神鑑定は、1974年1月16日から4月1日まで、永山を八王子刑務所に鑑定留置して行われた。石川医師は、青森に永山の母や長姉を訪ねて話を聞き取ることまでしている。それらも含め、鑑定留置前後にわたる278日間をかけて膨大な鑑定書が完成した。面談を録音した100時間を超えるテープ49本も残された。


 この本の著者はそのテープを録音から37年も後に石川医師から借り受け、カルテや鑑定書と突き合わせつつ、永山則夫がどのようにして連続射殺事件を起こすに至ったのかを追っている。永山が石川医師に対して次第に心を開き、思い出すのさえつらい過去の出来事に向き合い、とつとつと言葉を発していくさまは感動的でさえある。


 石川医師は、永山則夫が母に捨てられたと感じている母の行為の理由も探っている。母もまた過酷な幼少期を過ごしていた。石川医師はまた、永山則夫の幼時に唯一心温まる思い出を残してくれた長姉にも会い、永山の心の動きを知ろうとしている。これらの膨大な記録から私たちが教えられることは非常に多い。わずかなやさしさや親切さえもが、どれほど人間の心を潤し励ますものか。幼少年期の人間がいかにもろく、偶然に左右されて悪に大きく振れてしまうものであるか。しかし永山則夫には温かい手はなかなか届かず、家庭でも職場でも、微罪で送り込まれた少年鑑別所でも激しい暴力にさらされる。転々と職を変え、どこでも信頼関係を築く糸口さえみつからず、相談相手一人持たない永山則夫はどんどん追い詰められていく。


 ところが石川が心血を注いで完成させたこの鑑定書は、裁判にはほとんど生かされなかった。石川医師に鑑定を依頼してきたころの、手弁当で集まった優秀な弁護団は散り散りになってしまい、永山のまわりには全共闘運動の元闘士や社会運動家などが集まっていた。裁判は混とんとし、石川医師が第二次精神鑑定の担当者として東京地裁で証人尋問を受けるまでに、4年の月日が経ってしまっていた。


 しかも検察官からの石川医師への反対尋問は、糾弾と言ってもいいほどの激しさだった。永山の犯罪動機が「金ほしさ」とされていたのが、石川医師の鑑定書によって覆されたのが、その最大の理由だった。石川医師が脳波検査などにより永山の脳の脆弱性を指摘したこと、また永山の幼少期の生い立ちがその後の行動に決定的な影響を及ぼしたとする指摘も、検査官の激しい反発を招いた。当時はまだPTSDという言葉も概念も知られていなかったし、いまのように虐待の連鎖や、ネグレクトの影響の大きさなども注目されてはいなかった。


 さらに石川医師が鑑定書をもとに自説を強硬に主張できなかった理由があった。それは鑑定書完成直後に関係者に手渡されたとき、永山自身が鑑定の中身を否定したのだ。「自分の鑑定書じゃないみたいだ」と彼は言ったという。永山は獄中で必死に勉強を重ねて、大量の書物を読破し、自分でも著書を出版するまでになった。その永山は鑑定書にあった「被害妄想」「脳の脆弱性」「精神病に近い精神状態」などに自尊心を傷つけられ、激しく反発したと思われる。その一方で、永山則夫の死刑執行後に残された数少ない遺品のなかには、丁寧に保管され繰り返し読み込まれていたと思われる石川医師による鑑定書があった。永山則夫がこの鑑定書に一方では愛着をかんじていたことがうかがえる。石川医師はそのことは知らなかった。しかし彼は永山則夫の精神鑑定を最後に、犯罪精神医学を離れた。精神療法だったら患者から批判を受けても、それについて対話を重ねて治療に結びつけることもできる。だが精神鑑定の場合は、批判に対する反論の道さえも閉ざされているからだ。


 石川医師が証人尋問に立った第一審では、石川鑑定の欠点だけをあげつらい鑑定書を踏みにじるような形で、死刑判決が下された。1979年、永山が30歳のときだ。法廷で永山が怒号をあげ暴力的な態度を取ったのも判決では不利に働いた。


 しかしその判決から34年後の2012年、3人の裁判官のうちの1人であった豊吉彬元裁判官は、石川鑑定が採用されなかった事情についてつぎのような重要な証言をしている。石川鑑定は見たこともないような立派なものだった。3人の裁判官による合議でも、これでは極刑を下すのは無理だと口にする人さえいた。しかし裁判の結論はもう決まっていた。だからあの鑑定書は、排斥するよりほかなかったのだ、と。


 こうした裁判所の姿勢はいまにいたってもなお続いている。前に進めるきっかけを、ことごとく逃しているのが、この日本という国だ、とつくづく思う。この国のどこかに、重大な欠陥がひそんでいるのではないだろうか。

赤い服のカワムラさん

 


 日曜日の夕方、すぐ近くの城址公園へ散歩に行った。歩くつもりで出かけ、その気になったら適当に走る、という気軽なエクササイズだ。
 昼間は行楽客でにぎわったであろう公園内も、夕方5時ごろになるともう誰もいない。そうなると我が庭のようなもので、山並みを眺めたり、色づきはじめた木々に見とれたり、ぼんやり物思いにふけったりと、心地よい時間を過ごす。


 と、若い女性が急ぎ足で近寄ってきた。私は夕方の冷気を恐れてウィンドブレーカーを着ているのに、彼女は半袖Tシャツでしかも汗ばんだ顔。なにやら慌てているようすに見えた。
「赤い服を着た、細身で背の高い女性を見かけませんでしたか」と尋ねられた。
「誰も見ませんでしたが」と答えながら続きをうながし、気が動転しているのかあちこち飛ぶ話をまとめると、どうやら迷い人探しらしい。


 若い女性は近くの老人介護施設の職員だという。そういえば紺色Tシャツの胸元にロゴのようなものが入っている。彼女の話では、入所者の女性がこのあたりはよく知っているからと出かけて行ったが、だいぶたっても戻らないのだという。
 その女性の名前は、と尋ねると「カワムラさん」とのこと。
「じゃあ、赤い服の女性を見つけたら、カワムラさんですか、と声をかけてみるけど、そしたら返事はしてくれるかしら」と訊くと、
「大丈夫だと思います。よろしくお願いします」と若い女性は走り去ろうとする。
「見つかったら、公園の正面入り口あたりに連れていき、あなたの施設に連絡します」と後ろ姿に呼びかけた。


 この季節は朝晩と昼間の温度差が大きい。夕方以降はどんどん寒くなる。早く見つけないと大変だ、と散歩どころではない気分になった。まさか谷には降りて行かないだろうな、と公園の周囲に広がる森をのぞいたりしていると、こんどは若い男性が走り寄ってきた。
「あの赤い服を着た女性を、、」というところまで聞いて、「カワムラさんを探しているのね、みつけたら正面の三の門へ連れていきます」と言うと、彼も礼を言いながら走り去った。


 予定していた散歩コースを変更して、花の植え込みが多いあたりを歩いてみる。昇りやすそうな階段のある石垣の上にも行ってみる。カワムラさんらしき姿はない。カワムラさんはいったいいくつなのだろう。もしかしたら私ぐらいかちょっと年長あたりだろうか。そんなことを考えながら三の門を通り過ぎ、店じまいした土産物店あたりできょろきょろしていると、さっきの介護施設職員の男女が連れ立って、施設へ戻る道を急いでいるのが見えた。あの感じだと、カワムラさんはみつかったのかな。まさかみつからないまま、この時間に捜索を打ち切ることはないだろう。


 そう思っても気になるので、ニュースを追う。テレビでも翌朝の新聞でもそれらしき話題はどこにもない。どうやら無事だったようだ、と人知れず安堵した。

 

ぼくが逝った日  ミシェル・ロスダン著

 

 暇に飽かして乱読をしている。というよりも、庭や畑に伸び放題の草木から目をそらしたくて、終日寝転がって本ばかり読んでいるというところだろうか。それにしてもおもしろい本にはなかなかぶつからない。と思っていたのだが、あるのですねえ素晴らしい本というものが。


「ぼくが逝った日」は、風変わりなタイトルに惹かれて手に取った。ぱらっと見た著者紹介にも興味をいだいた。私とほぼ同年輩のオペラ演出家、この本は近年に書かれたのだが彼にとっては初めての小説だという。


 のっけから、この作品をどうしても書かねばならなかった切迫感が伝わってくる。著者と女優である妻は21歳の息子を突然亡くした。体調が悪いのを流感のせいぐらいに思っていたら、病状が急変して死に至ってしまった。体に紫斑が浮かび出る劇症型髄膜炎であった。両親は嘆き悲しむ。涙が流れ出て止まらない。そして自分を責めつづける。


 21歳といえば、反抗期をやっと脱して親ともそれなりに会話が成り立つころだ。父も母もそれぞれにそんな時間を楽しんだ矢先に、息子は亡くなってしまった。あの時もっとゆっくり時間を取ればよかった、あの先まで息子とともに散歩の足を延ばすことだってできたのに、と親の悔恨は尽きることがない。


 それでも容赦なく月日は過ぎていく。ふとしたきっかけで息子がいない悲しみが蘇って激しく動揺し、その一方でそのさなかにも空腹をおぼえて食事をする。無論のこと仕事にも復帰していく。そうした両親の8年間が、死んでしまった息子である「ぼく」によって時や所を自在に飛び越えて語られる。


 両親は喪失という事実を持てあましている。息子がまだその辺にいるように思いたくて、いろんな兆候をみつけては息子に接触しようとする。火葬した息子の遺灰、在りし日の写真、残された衣類、あるいは息子の友人が語る逸話などにすがりつく。息子を抱き寄せては引き離され、行きつ戻りつ日々の生を紡いでいく。それを読みながら、私も涙を誘われ、かと思うとたまらず笑いだしたりしてこの本を読み終えた。


 死んだ息子に、自分の死後の両親たちを語らせるとは、なんとうまい手を考え出したのだろう。若いまま逝った息子にとっては、親は往々にして鬱陶しい。自分の死を嘆き悲しむ親を、息子は慰めつつも時には辛辣に笑い飛ばしたりする。そうやって著者は自分の心をあちらから眺めこちらから眺め、息子のいなくなった日々をやっと生き延びたのだろう。悲しみはつづく。けれどそのうえにさまざまな思いを豊かに盛りあげて、死者をも包摂して人間のいとなみはつづいていく。